2020年5月26日火曜日

5 ヵ月ぶりの田舎

こんにちわ🌏
ブログにいつも訪問下さっている方々ありがとうございます😊
わたしが直接知らない方々でも、また遠くて中々会えない友人たちにもブログを読んで貰えてる事で、心が繋がっているようで、ロックダウン中も寂しさを覚えずに、
乗り越える事ができました🌈
皆さま、心からありがとうございます😊

先週末からパリから60キロほど離れた田舎に滞在していました🌳

考えてみたら、昨年12月から、ずっとパリにいました。交通ストライキから間髪を入れずにCOVID-19 のパンデミックに入り、ずっとパリから出られないでいましたから、まるでや地球の裏側の遠い外国に来たかのような新鮮さがありました😃

Wifiも無く、パソコンも無い、壮大な森や川、木々たちなどの自然の中で、野鳥や犬や猫ちゃんたち、新鮮な野菜や果物にたくさんのエネルギーを貰ってきました🌈


パリに戻り、新たにスタートした会社の新企画の仕込みも始まってきましたが、まだもう少し内観する必要がありそう🐢

今日は久々にまた20代の頃に書いたエッセイ
(中学生1年生から1年間通った、鴨川の近くの柳池中学でのマラソン大会での
自分の忘れられないエピソード)を、この先週末に充電された素朴な田舎の風景写真を
ご紹介しながら、ご紹介してゆきたいと思います。

屈辱のマラソン大会」




  今日は、わたしの最初に通った中学の1年生の2学期には、京都の鴨川沿いを20キロ近く走る、と言う長距離マラソン大会が行われるのが恒例になっていた。
わたしは双子の姉と共に、このマラソン大会に備えて、数ヶ月前から早朝ジョギングを始めて、密かに準備を始めていた。

何故なら?
「この大会では、絶対に優勝するつもりでいたからだ。」
わたしたちは、身体は人一倍小さかったのだが、大変な負けず嫌いで、どんなことでも一番にならないと気が済まない、と言う頑固な精神の持ち主だった。

たかだか学校で行われる、文化祭にしろ、カルタ大会にしろ、数ヶ月前からは、特訓を始めるのが、わたしたち双子の間では、「暗黙のルール」になっていた。



1学年は4クラスあり、160人近くの生徒が早朝の鴨川の集合場所に集合した。
多くの生徒たちは「何がマラソンだ〜、、!」と言いたげに、思春期特有の眠そうな目を擦りながら、義務的にダラダラと集っていたようだ。

しかしわたしたちは、昨日の夜からこの日の大会を思ってワクワクしながら朝を迎えたので、
わたしたちは、もうすでに軽く足をあげながら、準備体操をしていた。

 色々な注意事項などを、体育の先生がメガホンを使って話していたが、そんな話はもはや耳には入っていなかった。
早くスタートのピストルが鳴らないか、と今か今かと、せっかちなわたしは、心の中で思った。

 ようやく、待ちに待った、スタートの瞬間がやってきた。
いよいよ早朝の心地よい鴨川のほとりに大きなスタートを知らせる「銃声」が鳴り響いた。


わたしは、無我夢中で走りだした。
あまり勢い良くスタートしたので、すぐにみんなの先頭に立って走っていた。
しばらく、わたしは心地よく走っていた。

するとすぐ隣りに猛烈に走る、誰かを感じた。
はて?
「一体そんなに勢い良くわたしを抜かそうと、頑張って走っている人は誰だろう?」

と横をチラッと見ると、何とそれは、双子の姉ではないか!

わたしは少々安心したのと同時に、強いライバル意識が出てきた。
いつも、そうなのだ。
姉の頑張る姿を嬉しく思うと同時に、必ずライバル意識が出てきていたようだ。

 双子の姉も、チラリと私を見て、同じような事を考えていたようだ。
わたしが少し前を走れば、姉がすぐに、抜かそうと少し、走る足を早めた。
すると、わたしも抜かそうと足を早めた。
遠くから見たら、きっと小さなウサギの争いに見えたかもしれない。


そうこうしているうちに、今まではまっすぐだった、石砂利の鴨川沿いが、前方にかなりの段差のある下り坂があった。
しかし、わたしは姉との小さな競争のために、その段差があることには全く気が付いていなかった。

その段差が近づいた時にはもうすでに遅かった。
わたしは、その段差に見事に派手につまずき、小鳥のように身軽なわたしは、一瞬空に飛んだ様に錯覚した!
やっと飛べたんだ!と心で喜びに満ち溢れていたのだが、
現実はと言えば、身軽な体だと言えど、重力が邪魔をして、崖下に転がり落ちてしまっただけだった。

出発から、たったの5分とは経ってはいない頃だろうか?

しかし、私の血だらけの素足の両膝は、荒い石砂利によってひどい状態になっていた。
起きあがろうにも、しびれているのか、激痛のために立ち上がる事が出来なかった。
横には双子の姉はいなかった。

もうとっくに先へ行ってしまったようだ。
わたしは悔し涙も出ないほどショックだったが、痛みの涙が、不思議に出なかったのはなぜだろうか?

保健の先生が、起き上がれないわたしの事をどこから見ていたのか不思議だが、見つけて
抱き起こしてくれた。

しかし、わたしはその親切な手を振りほどいて、虚しく抵抗した。
わたしの血だらけの両膝を見ると、すぐに消毒して薬をつけて、応急処置をしなければ、膿んでしまい、大変な事になるから、、と今すぐにマラソン大会の棄権を勧めてきた。



しかし、頑固なわたしは、
「棄権なんて冗談じゃない!!」と益々、優しくしかし厳しく声を掛けてくる保健の先生がうっとうしくてたまらなかった。

そんな先生の助言も無視してわたしは、「ゴールまで走ります。」と唸るように小さな声で答えた。

そうは言っても、本当に足が動かなかった。
悔しかった。
ほんの先ほどまでは、あんなに軽やかに、リスのように飛び跳ねていたではないか?

それが今は、もはや自分の足が、自分の身体ではないかのように、邪魔なものに思えた。
保健の先生は、この頑固なしつこい生徒にはもう、諦めたのか、何も言わなくなった。

わたしは、両足を引きずりながら、一歩一歩と前に進んでいった。
まるで子亀のように、、。
その内に、不思議に、痛みを感じなくなってきたようだった。
それは錯覚で、その時は極度の緊張状態だったので、痛みを一瞬忘れさせてくれたのであろう。
わたしの膝は、両足はもはや麻痺してしまったのかもしれず、ただ何か重い棒を2本身体に付けて歩いているような感覚のまま、ひたすら走っていった。
走ると言うよりは、引きずりながら歩いていた。

もう周りの競争仲間などはどうでも良かった。
ただ無我夢中に前に一歩、一歩進んでいたかったからだ。


 このマラソン大会では、ある規則があったようだ。
それは、一番最後の走者は、「ビリのタスキ」というものを、肩から下げて走らないとならないと言う決まりだ。
確か、メガホンで何やら体育の先生が今朝説明していたような気もする。

しかし、わたしには地球がひっくり返っても無縁だ、と信じていたので、あまり詳しく聞いていなかった。
 ところが、私が、ようやく折り返し地点の印のある大木の所に来た時だった。

隣りに誰か近づいてくるではないか?
先生かな?
何だかやけに大柄な身体が近づいてくるような気配がする、と思い、またもや
「チラリ」と横を見た。

それは、それは、紛れもなく、今にもその無縁なはずの「タスキ」を自分の身体から外して、わたしに優しく、労わりながら、掛けてくれようとしているのは、
かなり丸々とした女子生徒だった。

彼女は、体育のクラスは大の不得意科目で、陸上競技では大抵最後に残ってしまう
生徒の一人だった。
 「まさか!」わたしは今、たった今、「ビリのタスキ!」を掛けられた「ビリっけつ」になったのだ。

わたしには、もうその彼女を追い抜かす事は力は出なかった。
完全なる降参、負けを受け入れなければなならなかった。

 折り返し地点の大木の所には担任の先生が当番で立っていた。
青白い顔をして、血だらけの両膝を引きずっているわたしを見て、
「なぜこんなに怪我をしているのに、棄権しないんだ!」
と大声をあげ、
「もう半分走ったのだから、これから車で集合場所まで帰ろう」
と、やはり優しく言いながらも殆ど怒っていた。

「わたしは、半分までこんな足でも引きずって来られたのならば、
あと半分も歩けるはずだ〜」
東京オリンピックの陸上競技の選抜選手権に出場したほどの、わたしの頑固な
明治生まれの祖母の血を引き継いだのか、益々頑固女の血潮が騒ぎ、首を横に振り続け、後ろに先生の存在を感じながらも、また引きずりながら歩き続けた。

 先生は、もうわたしがビリなのだから、とターンの大木の場所の見張り当番も終え、
わたしの直ぐ後ろを歩きながら、見守ってくれていた。

わたしは只一人で走り、いや最後まで歩きたかっただけだった。
先生と一緒に歩く、おぶってもらう?なんて、何だか補助付きみたいでいやだった。

しかし、先生は心配だったのだろう。
だが、わたしの頑なな態度を見て、もうここまで意地を張る小さな女の子を、どうしようもできなく、諦めていたのだろう。


 実際、この「ビリタスキ」を掛けながらの、ゴールまでの道は、とてつもなく長く感じられた。
もうやめて、本当に先生の言うように車でゴールまで行って、早く処置してもらう方が良いかもしれない、と理性が頭をよぎった。
そうすれば、たったの3分で、もうこの地獄のような現実とも終わりで、救急処置を施し、家まで送ってもらえるかもしれない。

家に帰れば、母が心配して優しく看病してくれるだろう。
いつも二人だけになるとイジメてくる姉も、流石に優しくしてくれるだろう。

しかし、わたしは、天邪鬼か、素直でないのか、「安易な道が嫌い」だった。
と言うか、元来無茶をする性格なのだ。

 時間が止まってしまったかのように感じた。
ひたすら、ひたすら足を引きずり続けた。
あと一歩、一歩。
遠くを見ると、あまりの長さに気が遠くなり、倒れてしまいそうだから
なるべく自分じゃないみたいな足を見ながら手で持ち上げながら
一歩一歩運び続けた。

鴨川に集まるカモメの泣き声が、やけに大きく耳に聞こえてきた。
だんだんと、遠くにぼんやりと人の集団が見えてきた。

ふと気付くと、一人で歩いているつもりが、後ろにいた先生が、
「もうすぐゴールだからね!」と優しく声援を送ってくれた。

そのうちに、今度は声援が何だか大きくなってきたようだった。
よく聞いてみると、「頑張れ!」と言っているようだった。

実際、のろのろとわたしが来るのを、どのくらい待っていてくれたのであろう。
その頃は携帯電話も無かったので、あとどのくらいでビリの人が来る、と分かる事も出来ないので、ただひたすらテープ係りの人も待っていたのだろう。


わたしのために、しっかりとテープは張られていた。
わたしがゴールに着いた途端に、もの凄い歓声と拍手が聞こえた。
真っ先に双子の姉が飛んできて、わたしを置いて先に行ってしまったことを申し訳なさそうに詫びていた。

競争なんだから、先に走って当たり前じゃない、と答えたが、
その姉の気持ちがなんだか分からないが、嬉しかった。
また、喧嘩しても、やっぱり最後にはわたしから謝ってしまう要素は、
こんなところから生まれる、のかもしれない。

わたしは「ビリタスキ」を掛けてゴールするのは、どんなにか屈辱の気持ちだろうか?
と痛みの中で、足を引きずりながら、想像していた。

しかし、わたしは「最高の声援と拍手」をもらって、ゴールする事が出来た。
だれよりも、最高の幸せ者となったのだ。

急に両膝の激しい痛みがまた襲ってきた。
保健の先生が急いで、オキシドールで怪我をして、すでに腫れ始めている両膝を消毒しながら、
「悪化しても知らないよ」と意地悪げに言っていたが、顔を見るとにこやかに笑っていた。

何だか、わたしはビリだったと言うのに、まるで「優勝」したような嬉しさがこみあげてきたようだった。なぜだか分からないが・・・。



 わたしは、このマラソン大会の時の事を、なぜか数十年経った今になっても鮮明に覚えているのだ。
たとえどんな絶望的な状態になっても、最後まで絶対に諦めない強靱な精神、とも言うべきか、そんな人生の大切な何かを学び取った、わたしにとっての貴重な体験だったからだ。
 ちなみに、わたしは今でも良く転びそうになる癖がある。
20代のうちは、よく膝を怪我したものだ。
まるで子供のように。
しかし、最近はもう膝を痛めるのだけは、懲りごりなので、ようやく足元を慎重に歩く、癖もついてきたようだ。

〜了〜

エッセイはここまでです🌈

皆さま読んで下さり、ありがとうございます🤲




 
 

2020年5月18日月曜日

新会社登記の知らせ‼️

こんばんわ🌏
尺八シンガーのクレアシオン桂です🍀
いつもブログを読んで下さり、ありがとうございます😊

外出規制が緩和されて今日が最初の日曜日ですが、56日間の外出規制

厳しかったせいもあり、人々はどんどんと外出を楽しむようになってきました。


わたしは、まだロックダウンモードから中々抜けきれないのでは?

と案じていたのも、無駄な老婆心となり、外出規制緩和された12日から3日目の昨日、
フランス人弁護士からの連絡で、すっかりロックダウンモードから目覚めたわけです😆

「あなたの新しく起業していた会社の件ですが、ようやく商事裁判所に公的に登記されました!」

フランスに初めて渡仏したのが1990年の夏。
それから、フランス滞在トータルは早20年になりました。
初のフランスで会社を2月に入って起業し、登記を申請するために弁護士に依頼していたのです👽

 そんな矢先、コロナウイルスのパンデミックに入り、ロックダウンになってしまい、

大幅な遅れを余儀なくされてしまいましたが、

 そんな中での朗報!🎉😃




予定より、2ヶ月以上も遅れての小さな小さな会社誕生です。
 出資金も、極小ですが😉
 しかも、役員は3名存在しますが、わたしはパリ在住ということで代表に!
 なぜ、フランスに会社を起業する必要があったのか? 
 尺八シンガーなのに?
 自分でも正直不思議なんですよね〜〜😅

 日本に帰国し数年ほど、息子が幼少期はどっぷりと日本で過ごし、大病をし
大手術をした母の看病を経て、2010年の初夏に天に見送る🌈
そして翌年には、フランスに小学生の息子と戻ることになり、、
それから5年後

個人事業主(Auto-Entrepreneur)という身分でフリーランスとして、

演奏家としての活動や音楽家やアーチストとしての創作活動、イベントの企画など幅広く活動することにしました。
 正式に就労可能な滞在許可証を持っていましたが、フルタイムで会社などに雇用される給与所得者としての生活は、わたしの性にはどうしても合わなそうに感じましたし、
一人息子との時間もなるべく取りたい思っていたので、フリーランス形態が一番理想だったのです‼️



 こうして、さらに数年間、色々な世界観の方々との貴重な出会いを通じて、音楽や尺八を通して、益々たくさんの素敵な経験をさせてもらい、血となり肉となる仕事を経験する中で、出会いがさらに縁を紡いで、さらに出会い、人生の織物が織られてきました🧶

その中で、シンガポールをベースに会社を設立起業、世界を駆け回っている素晴らしい女性起業家と知り合いましたが、その彼女と引き合わせて下さった、長いビジネスキャリア
のある素晴らしいふたりの女性パワーのバックアップもあり、このフランスに子会社を共同設立すると言う話しになり、半年前は空想話しだったのですが、本当に出来てしまった、という訳なのです🚀

 それで、そのできた会社で何をするの?気になりますよね、、🤷🏻‍♀️
シンガポールの会社では、日本の小さな店や、中小企業の素晴らしい日本の伝統工芸品を海外に広げ、ビジネス販路を開拓するきっかけ作りをするために、経済産業省とやり取りしたりコーディネートする会社のフランスの取引先が、「この新しい誕生した会社」と
なる訳です🙌

 その会社のサポートもあり、この度、音楽やアートの世界にどっぷりと浸かってきたわたしが、子育てを一段落して、新たな人生スタートを切るけじめとして、この新会社起業に至りました🤝
 理由は?直感ですかね🤩


 
フランスの会社形態は、いくつもありますが、出資金が少しでも良い小さな会社形態を選び、

SAS ( Société par action simplifié ) 単純型株式会社を選びました🤓


フランス法における最新の会社形態で、資本金を含め定款自治に委ねられる部分が多く、非常に柔軟な組織形態😋
出資者は1名以上、最低資本金規制はなく、近年利用するケースが増えているとの事😃

今回は、少ない出資金で3人の役員でスタートしますが、増資も途中でできるので、
先ずは無理せず、

可愛くたったの1200€「15万円」ですよ〜😅

会社設立のステップは?

① 事務所探し→会社本拠地の指定 

自宅兼オフィスですから、出社の必要無し🙆‍♀️

② 法人形態 (SA、SARL、SASなど)の選択

迷わず、SAS を選択‼️ 


③ 会社定款の作成および署名
(定款作成には、登記住所、会社役員、会社の目的の確定などを済ませておく必要があります)

これ、これが大変‼️

なので、フランス弁護士さんを知人に紹介してもらいました😊

運良く、弁護士になって一年目の、若い優秀なホヤホヤの弁護士さんで、
何と商事裁判所登記手続き費用500€ほど🤩

④ EU域外の外国人役員の場合には、長期滞在ビザと滞在許可証の取得、あるいはフランスに居住することを希望しない外国人役員のための事前届出の履行

フランス国外の役員も、パスポートなどの身分証コピーだけでOK🙆‍♀️


⑤ 商号の選択および商事裁判所書記局での類似商号調査

H.A.K Vigne に決定🌏 ロゴデザインも才能溢れる友人がすってきなロゴ

を作成してくれました🐥
三人の役員の頭文字イニシャル、白 にVigneはワイン畑🍷 赤
🇯🇵 

⑥ 法的に必要な場合は、会計監査人の選任及び資本金の設定

はい、一人400€ずつ、で、三人で1200€🌈にしましたが、

弁護士さんが言うには1€以上なら良いとか?えっ!いくら何でも?それは、、、😅

⑦ フランス国内の銀行口座の開設、および設立中の会社資本金の払い込み

自宅兼会社から徒歩10分の、自分の個人口座とは違うBanque Populaire というフランスの銀行に法人口座開設に決めました‼️

法人口座開設のためにも、アポを何度も取りましたが、マスク必須で、モゴモゴお互い
しながら、手続きを進めましたよ😷

⑧ 本社所在地の税務署への定款登記

⑨ 設立通知の法定公告掲載紙へ公示

弁護士さんに作成して頂いた会社定款を代行で登記してもらいました📝

銀行のシャッターは閉まっているように見えますが、奥でみな出勤して仕事中


設立手続き費用は、
株式会社(SA)、有限会社(SARL)、単純型株式会社(SAS)
いずれも

商業・会社登記簿(RCS)への登録料は50ユーロくらい

と言われていますが、まだ請求書は来ていません📨

約230ユーロの法定新聞への公告費用も必要💰

実際の手続を進めるにあたっては、専門弁護士と相談することをお勧めします🤝

コロナパンデミックを乗り越えて誕生したばかりの、ホヤホヤの小さな
SAS H.A.K Vigne 会社ですが、小さく産んで、大きく育てて行けるように
会社育て、ベストを尽くします🤲

どうぞ、宜しくお願い致します🇯🇵🇫🇷🌏




2020年5月14日木曜日

150円の罪👽

おはようございます☀🌏
今日は、コロナ対策外出制限緩和されてから3日目の快晴のパリから、内観ブログを
発信しております、尺八シンガーのクレアシオン桂です。
いつも読んで下さってありがとうございます😊
今日も20年前エッセイシリーズからお届けしたいと思いますが、今日は小学校低学年の頃に起きた50円の消しゴム3つを万引きしてしまった、苦〜〜い経験の告白エッセイです😅

「150円の罪」

最後まで読んで頂けると嬉しいです🤲


©︎Katsura CreaSion 


今わたしは、たくさんの切り刻まれた細かい消しゴムのクズの前に泣き崩れて、力なく座り込んでいた。
わたしはこの意味のまったくないように思える作業を、あすは休日ではなく小学校の授業があるにもかかわらず、夜通し続けた。
しかし、わずかばかりの明るさのろうそくの下でのこの空しい作業は、大変はかなく孤独なものだった。
しかしながら、仲の良い姉にさえも秘密のこの作業は、いまのわたしにとっては生きるか死ぬかの必死な作業だったのだ。

 わたしは、母と双子の姉と3人でいつものように大きなスーパーマーケットに買い物に来ていた。
東京六本木近くの人通りも多い通りの角に建つスーパーだった。姉は、母の脇でしきりに話に夢中になっていた。
母も忙しそうに買い物の品をカートの中に次々と入れていた。
そしていよいよ買い物が済んだと見え、母と姉はカートを押してレジの方へ進んでいった。
母や姉は、話に夢中で、わたしが側にいないことに気がついてはいないように見えた。

 わたしはいじわるな気持ちと、さびしい気持ちとうらやむ気持ちと、何とも言えない気持ちに駆られて、気がつくと真新しい50円ばかりの、小さな絵柄入りの「3つの消しゴム」を手に持っていた。
最初はそれを持って、急いで母たちのところへ行き、買ってほしい、とねだるつもりでいた。
しかし今ちょうど、レジでお金を払おうとしていた母は
「何をしていたの?」とちょっとばかり怒ったような、心配していたような大声を出して、遠くのわたしを呼んだ。
姉も早く〜早く〜と言ってわたしを手招きした。
わたしはその光景を見ると、すっかり手にしていた消しゴムをねだる事は、不可能のような気がしてきて、思わず、元の場所に返せばよいものを、そのまま上着のポケットの中にしまい込んでしまったのだ。
わたしは小走りに走って母たちのところへ行き、遅れたことをあやまった。
そして上着のポケットの中の「3つの消しゴム」については、とうとう何も言い出すことが出来なかった。

©︎Takako Hirano

  その晩からというもの、わたしの長い長い「罪の意識」が始まった。
単なる子供の出来心じゃないか、と笑ってもおられないものがあった。

最初の1週間は、わたしだけの大切なものを仕舞っておく「秘密の小箱」に布に包んで
大切に仕舞っておいた。
学校で思い切って使ってみようか?とも思ったが、とてもそんな勇気が出なかった。
毎日学校から帰ると何度もその小箱を開けてみては、ちゃんと見付からずに3つ仕舞ってあるか、が気になって確かめてみた。
何の罪もない消しゴムは、陽の目を浴びる事も許されず、ちゃんと3つ並んで、お行儀良く仕舞われていた。

 不思議なことに、最初は小さくわたしの心に生まれたこの「罪の意識」は、日に日に大きく膨らんでいった。
だんだんと、ある日突然、この3つの消しゴムが小箱から消えて無くなっていたらいいのに、とさえ願うようにもなった。
その時のわたしにとっては、使ってしまえばいいのに、と思うほど簡単なことではなかった。
とうとうわたしはこれらの消しゴムをこの世から排除することに決めた。そうすればわたしの心の中の「罪の意識」も同時に消え去るだろう、と。わたしは数日後に、実行に移した。

 わたしはこれ以上は不可能だ、と言うほど、跡形もなく切り刻んだ。カッターで、タマネギのみじん切りをするように。
わたしはさらにそれらを紙と布に包んで、ゴミ箱の一番奥に捨てた。そして、そのゴミを近くのゴミ捨て場まで運んでいった。

  その晩からはきっと、ぐっすり「罪の意識」もすっかり消えて熟睡でき良く眠れる、
と信じ、確信していた。
しかし不思議にも期待に反して益々「罪の意識」は大きくなっていった。

©︎Katsura CreaSion

姉は正義感の強い子供で頭が非常に良かった。
学校の成績もいつもトップで、その頃まだわたしたちは小学校4年生だったが代々木にある特別の進学塾に通っていて、(これも姉の強い希望で行くことになった)
すでに小学6年の内容の授業を受けていた。
姉はその塾でも常にトップを保っていた。

更には1ヶ月に1度振り落とし試験があって、それで落ちると、もう一度1ヶ月同じ内容のテキストを勉強しなくてはならず、従って周りの子供達とも自然と競争心が起きる。幸い私たちは、小学3年から2年間で全24回の進級テストを受け、何と!一度も落ちることもなく、4年から6年までの4科目の内容の勉強を終了出来た。

最初入学当時は100人近い塾生の子供たちがいたが、24回目の試験を受けて、見事最後まで残った人数はたったの4人。
その内女の子は私たち姉妹、それと男の子が2人の計4人だった。
わたしは何とかその塾の授業についていけたが、きっと姉がそばにいたので、刺激になって勉強、特に記憶することに、一時的に?がんばれたのかもしれない。

しかし、わたしは本当の胸の内を打ち明けると、
姉と「バトミントン」や「木登り」、「自転車乗り」、「演劇ごっこ」、世界コンクール学校ごっこ」、「公園で遊ぶ」、「指人形劇」、「にわかお化か屋敷ごっこ」、
「病院や喫茶店ごっこ」「クラシックのレコードをかけての指揮者ごっこやピアニストごっこ」などをして遊んでいる時が、一番幸せだった。
しかし、ちゃんと記憶、勉強すればご褒美に姉と一緒に遊べるのだ、と言う、
この「希望」こそが怠け者のわたしをがんばらせた唯一のエネルギー源だったのかもしれない。

  そんな理由で、心配性、完璧が好きな姉にだけは、この「消しゴムの件」については
打ち明けるわけには絶対にいかなかった。
もちろん母にも父にも友達にも、ペットの猫ちゃんにさえも語ることはなかった。 

 しかし、小さな身体に押し込められた心はますます耐えられないくらいに苦しくなっていった。
とうとう宇宙を作られた「神様」に祈り告白することにした。

©︎Katsura CreaSion


そのころ、わたしが住んでいたマンションの寝室には仏壇があった。
仏壇の中には祖母から預かっている大きな立派な観音様仏像まであった。
またどういう分けか、お数珠も5.6本、浄土真宗のお経本数冊、その中に混じって、
キリスト教の聖書まで挟まっていた。
その仏壇は、両親の寝室兼、わたしたちの寝室の角に備えてあったが、わたしはその日から毎日どんなことがあってもお経を唱え、聖書のどこかしらを読み、お数珠を持って最低30分は神に懺悔のお祈りをすることを自身に義務化した。
もしお祈りをしなければ、わたしは確実に死んだら「地獄」に行くことになるのだ、
と自分で決めた「判決」に、怯えて生きていくことになった。

 それは何と、その先10年以上も引きずる「罪の懺悔」の「わたしだけのしきたり」となり続く事になった。

 わたしはただただあの「3つの消しゴム」を盗んでしまった自分を、後悔し悔やんだ。
またあのスーパーに行って150円返金して来よう、と思ったこともあった。
しかし時間は大分経ってしまっし、そんな今更勇気はなかった。
また同じ懺悔の祈りを捧げ、怯えながら、「神様お許し下さい!」と叫ぶように涙を流しながら、眠りに入るのだった。

 それから10年後、わたしは単身フランスに渡った。
空を飛んで日本を離れれば、あの「罪」も一緒に海に投げ捨てられるかもしれない?
という甘い期待も少しはあったようだ。
もちろん目的はフルート留学で、全く違うのだが、、

 しかし、相変わらずこの「罪の意識」は、しつこいくらいにわたしの心に住み着いていた。
しかも10年の歳月のために、この「150円の罪」は、自分の魂をすっかり、はみ出るばかりに膨らんで大きく成長していたのだ。
本当に何をするにも妨げになった。
わたしはとうとう「これは出家するか」、「お払いをしてもらうか」「キリスト教に入り洗礼を受け、清めてもらう」などしか脱出の方法はないのではないか、と思った。

そしてわたしはヨーロッパに渡って1年数ヶ月くらい後に、本当に「クリスチャン」となる決意をした。

©︎Katsura CreaSion


 わたしは単純にキリスト教の「洗礼」を受けたその晩から、この10年以上も引きずってきた「罪の意識」から、いよいよ解放されるものだ、とばかり勝手にワクワク期待した。
 しかし、正直を言うと、「全く期待はずれ」の結果だったのだ。

期待はずれどころか、悲しいことには、益々「罪の意識」が強まってきて、今までも毎晩原因不明の「恐ろしい夢」を見ていたのだが、その夢がさらに恐ろしくなり、とうとう夢の次元を越えて、現実に幻覚や幻聴を伴うようになり、わたしは苦しみ続けた。わたしは眠るのが怖くなってしまったほどだ。

明かりを消すと怖くて寝られなくなった。
音楽も流しながらでないと眠られないのだ。
わたしはいよいよ「悪魔」、と言われる代物にでも取りつかれてしまったのではないか?と恐れた。
わたしは洗礼直後、毎晩のように、
 「わたしと一緒に死のう」
 と何者かに耳元で囁かれて、毎朝冷や汗をかいて飛び起きた。わたしはとうとう精神病にかかってしまったのか、と自分をますます責めた。



 わたしがどのように、この10年以上も心に住み着いた、「罪の意識」から完全に解放されたかは、今は一体いつ何処でだったのか、は残念ながらはっきりと覚えていないのだ。
しかしこれだけは言えるような気がする。
わたしはある日、次のような「人生の方程式」を発見したのだ。
それは、
 「いつまでも自分の心の中に存在する<罪の意識>を感じてしまう事柄に関しては、
それがなお今も続く<現在進行形>のものならば、それをきっぱり手放してしまうことなになのだ。」

 「またすでに<過去形>の罪となったものであれば、誰かに話したりするチャンスのある時には、まるで冗談話?の一つのように堂々と話してしまうことだ。」

 「また「罪の意識」をもう全く感じない過ぎ去った「罪」の一つであるならば、
たとえ周囲の人々の概念やモラルと異なり、非難の目や意見を聞いても、全くそれらの言葉に動揺したり、影響される必要はなく、自分自身を只管愛し、信じればよいのだ。」

 わたしは、これらの事を考えてみたら、不思議に目から鱗が落ちたように、急に元気になったような気がした。
わたしは早速、その月のヨーロッパ向けの日本人クリスチャン向けの月報誌に、
この「3つの消しゴムの罪の意識」について告白の記事を掲載してもらった。
その記事が、クリスチャンたちの間でどのように受け止められ、ジャッジされたか?
については、わたしはあまり興味がなかった。

というのも、この記事を掲載してもらってから、わたしは本当に長く住み着いたこの
「罪の意識」から、完全に解放されたからだ。
わたしはもやは後悔もしていなかったし、むしろ、これらの「人生の方程式」を発見することの出来たきっかけとなった、わたしの「心の歴史」に感謝しているほどだ。

また人生とは、何が効を来す、のか全く予想のつかないものである、ということについても、十分学ぶことが出来たようだ。
わたしはもう一つ、人を破壊する最も恐ろしい物は、只一つ
「不安と恐れ」であることが今はっきりと分かったように思う。
そして、その反対の「万物に対する愛」と「愛の祈り」は、無敵である
と言う事もわかったように思う。

2000年5月著エッセイより「150円の罪」〜子どもから見た世界観〜より

長い記事、読んで下さりありがとうございます😊

今日は2005年6月に発売した二枚目のアルバム「WHY」よりタイトル曲の
「WHY」の動画をお届けします🌏

https://youtu.be/7WndCVI9CTo




2020年5月12日火曜日

双子の秘密👩‍❤️‍💋‍👩パート②

皆さまこんにちわ🌏
今日は、パリは快晴☀️で気持ちが良いです

今日は、お約束の20年前のエッセイ

「双子の秘密」パート②

をお届け致します👩‍❤️‍💋‍👩


2歳10ヵ月のわたしたち双子と、母🤱


またその狭い廊下では、「スリッパ魚釣り」と言う遊びが週に1,2度は行われた。
この遊びは、私も双子の姉も結構気に入っている遊びの一つだった。
準備は至って簡単、
①スリッパが10足
② 一メートルほどの物差し
の二つだけあればそれでOKだ。
後は、狭い廊下スペースに、神経衰弱のトランプカードのように、一人が無造作に
ばらまく。
もう一人は目隠しをされて、合図と共に、1メートル物差し両手に持ち、
3分間にどれだけのスリッパを釣れるか?を競う、と言う遊びだ。

スリッパと言う物は、「本来、住人が家で使用し、足に履く物」と言う常識も、
私たちには全く通用せず、何の妨げにもならなかった。
その上、この遊びに関しても母から一度たりとも
「お客様用のきれいなスリッパが汚たり痛んだりするから、そんな風に投げたり、
乱暴な訳もわからない遊びに使う物ではありません」
と叱られた記憶はない。



  また、違う双子遊びには、こんなのもあった。
お客が来ると、居間兼書斎は、わたしたちにとっては、デパートに早変わりした。

家の中のあらゆる小物などに値段を付け、テーブルの上に並べられた。実際お客が来たときのために、普段から、手作りノートや、絵、絵本、ビーズなどで作ったキーホルダー、七宝焼き、焼き物クラブで作り溜めた、焼き物の食器、などが飾られていた。

そして親戚の者や、両親の知り合いなどの大人達が訪問してくると、すぐに
「一日限定開催デパート」へ勧誘し、無理矢理、強制的に客になって貰った。
最初は、大人達は、タダの子供の遊びだと思って、仕方ないな、ヤレヤレ的な心理で、
猫なで声?出して、親切にも
「何にしようかな、それじゃあ、これ下さい」、などと親切に、欲しくもないのに、
買い物ごっこにつき合おうとしてくれた。
しかし、私たちに「ごっこ」は無しだった。
買い物とは、何かをお金を出して買う事、を指すのだから、欲しいからには、
ちゃんとお金を払うまで、その一日開催にわかデパートだとしても、お客は解放させてもらえなかったのだ。

この双子の、特にわたしのしつこさに (姉はと言うと、悪いからもうやめようよ、と、消極的な態度が多かったが、)
最初は、仕方ないな、と言う大人の優しさから、猫なで声を出していたけれども、
本当のお金で、値札がついてる値段をキッチリ支払うまでは、厳しい顔で、ガンと立っている私たちが妙に怖くなったのか?
「一体どういう教育してるんだ⁈」
としまいには  苛立ち、怒るように、500円札(当時は札であった!)を私たちに投げ捨てて、プンプンしながら帰ってしまった人もいたくらいだ。

その後、私たちは、何で怒って行ってしまったのか?悲しくなり、困ってしまった。
もちろん、本当のお金で一旦は、支払って買い物ごっこに付き合ってくれたとしても、
後で、ちゃんと遊びが終了した普段の私たち、正気?に戻った時には、ちゃんと500円を返金し、品物はプレゼントするつもりだったのだ。

それなのに、本当に怒って帰ってしまった。
悲しかったし、傷ついた。
母が、「急いで500円札を返しに追いかけなさい、!」と言ったので、小さな傷ついた双子は、揃って猛烈にその知人を追いかけていって、500円札を返そうとした。
最初は、わたしたちに気付いて振り返り、
「要らないわよ、もう!」と、その500円札をどうしても受け取ろうとはしなかったが、仕舞いに、またまた私たちのしつこさに負けて、500円札を受け取ってくれた。



 また、居間兼書斎は「テーマパーク限定双子お化け屋敷にも早変わりした。
これまたお客の訪問の際に、お客が餌食となるので、我が家を訪問する際は、
ちょっとした、いやかなりな覚悟が必要かもしれない。

「お化け屋敷」と言っても、電気を消した真っ暗な居間に、スリッパ魚釣りによりスリッパは双子に既に回収されているため、客人は素足でゆっくりと入室してもらう。
そこで先ずは、足にヒンヤリと柔らかな感触を味わって頂くプランだ。
タネを明かすと、冷蔵庫から拝借した封を開けた「コンニャク」を数枚、入り口に置いておくだけだ。
また、次に客人に待つ運命は、ヒンヤリした濡れタオルが顔目がけて飛んでくるだろう。

そして客人は悲鳴を上げ、さらに少し一歩進むと、カセットが突然鳴りだし、人の悲鳴声を聞かされる。
もちろん、この録音は事前に二人によって事前に準備されている。
そして、そのカセットから、ピアノの音もポロロン、ポロロン、と聞こえてくるではないか?
悲しげなメロディー、、背筋がゾクゾクさせたその瞬間、足元に寝ている柔らかな猫を、客人は踏んでしまい、びっくりした猫は、客人に飛びつき、噛みつき、爪を立てる。

そして客人の背後から、双子のうちの一人がくすぐったい腰のツボを激しく揉む。
笑いに堪えられない、参り切った客人は、急いでそのお化け屋敷部屋から降参し逃げていき、小さな双子により大人を負かすと言う涙と笑い、痛みと驚きに怒り、と言った、
人の五感を短時間に使える「お化け屋敷」なのか、ただの「悪ガキによるイタズラ」
なのか、よく分からないシナリオを双子は考えていた。

しかし、どうしてだろうか?このシナリオが最後までうまく行った試しがないのだ?
客が入室してコンニャクを踏んだ辺りで、電気を付けてしまうか、
「何やってるの⁈ ったく!」
とお叱りか、バカにしたような?笑いで、興奮しワクワクした小さな小悪魔双子たちは、あっさりと「現実」に引き戻されてしまうだ。
下らなく見えるんこの「お化カ部屋」に、二人はかなり時間をかけて準備していることもあり、計画通りに行かない結末に、私たちはいつも一気に不機嫌になり、不満足に終わるのだが、喉元過ぎれば、、なのかまた懲りずに次の客人の来訪を心待ちにし、新たなプランを無言テレパシーにより会議が日々始まる。

但し、客人自身の相当な協力の必要な「お化け屋敷」だったため、最後まで成功した客人は、たった一人「実母」だけでした。


 また、私たちは本当に「変な遊び」を見つける名人なのか、ある休みの日に、
普通に生活するのは飽きた、と言って、マンションの「狭いベランダ」に住まいを移す、
と、両親に宣言し、双子は部屋出した。
ふたりでベランダにゴザをひいて、学校の勉強道具なども、一切ベランダに移した。
そうやって数日間をベランダで過ごした。

寝るときだけは、部屋に戻り、押入を改造した2段ベットだった。
しかし、昼間をほとんどベランダで過ごしたのだ。
もちろん、ご飯もベランダの小さなゴザの敷物の上で、二人でピクニックのように
仲良く、喧嘩しながら食べた。
宿題やお絵描き、など全てベランダでやった。

本当に狭くて、小さなベランダだったのだが、ベランダ住まいが数日経った頃、母が大切にしていたわたしたち生まれた時から育てていた、「ゴムの木」の葉っぱを、わたしが誤って、折ってしまったのだ。
悲しむ母に、怒られたわたしは、反省のため、ベランダに閉じ込められ、鍵をかけられて部屋の中に入れなかった事があった。
部屋に見つけたボンドで、「ゴムの葉」大きな自分の顔よりも大きな葉っぱだったが、茎に付けようと苦戦していた。
わたしたちは、なんだかベランダ住まいも飽きてきて、早く部屋の中に入れてもらいたかったのだが、母もあまのじゃくな私の性格を知っていて、
「ベランダに住居移したんでしょう?」ならばそのままベランダで過ごしたらいいじゃない?と部屋に入れてくれずに数時間、放っておかれた時には、本当に悲しくて焦り、
ゴムの葉っぱに
「お願いだから、いい子だから、強力接着剤で、茎にまたくっついて!」と願うようにお祈りしていた事を覚えている。



 また、野外での遊びも数多くある。
まず、私たちの住んでいたのは、東京の青山と言う都会だったこともあって、あまり遊び場は無かった。
しかし幸いにも私たちの住んでいた小さなマンションの目の前には、広い「墓地」があった。
私たちはいつもその「墓地」もしくはマンションの「屋上」を遊び場にしていた。
屋上に上がった際には、私たちは非常に「危険な秘密の遊び」を実行していた。
もちろん親には「極秘の遊び」だった。
その遊び内容を告白したのは、それから30年以上先の、母が地球を旅発つ数ヶ月前だったか、、。

その「極秘の遊び」とは、屋上に立ち入り禁止の水道タンクの置いてある上がる、
はしごをさらに登り、タンクの上に登って東京タワーを眺めることである。

また、柵を乗り越えて、柵の全く無い 幅が15センチほどしか全長3メートルほどの
を歩き! 向こう側に渡る、と言う何とも恐ろしい一つ間違えたら4階のマンションから真っ逆さまに落ちたら、怪我だけでは済まず、命の保障さえない「恐ろしい遊び」だ。

わたしたち双子は幸い小さかったので、この15センチ幅の狭い通路を渡ることに、いつも成功していたが、だから、今のわたしたちが実在しているわけだ。
しかし、もし身体が大きな大人が、このバカげた遊びを挑戦したならば、かなりな率で、失敗して、4階、屋上からならば5階の高さはあるマンションの屋上から真っ逆様に落ちて、大怪我、もしくは命は無かったことだろう。
このような命を賭けた冒険が、私たちの心を掻き乱せるワクワクする遊びだったのだ。
本気で、まあ、落ちても鳥みたいに飛べばいいんだから、と怖さは無かったからだ。

もちろん、失敗して落ちたら、命を失うことになることも、子供ながらに十分承知していたのだが、その「命」についての「秘密」も知りたかったこともあった。
「人の命」について、どうしても分からないことがあり、屋上のでの「命の冒険」はその度に、その本当の命の大切さ、の何かを発見出来る事を期待して、毎回飽きもせずに続けていたようだ。 


また墓地で遊んでいた時は、私たちの特別な遊び方があった。
まず、一番立派な広い墓石の建てられている場所を選び、そこを私たちの住まいとする事にし、そこにある小さなテーブルの上で野外授業が始まる。

まず、墓石に掘られている難しい漢字の文字を先を水で濡らした、細長い枝を筆にして、その文字の上をなぞり、漢字の練習をした。

その次は、木登り、木の葉を集めては食事の用意もした。また近くに50センチの深さの落とし穴も掘ってはお互いにその穴にはまる遊びもお気に入りの遊びだった。
墓地の真ん中の広い道を通り抜けて、長い石の階段を降りていくと、下には公園があった。
またその公園の側には、「のぞみの家」と言う名札のかかった、子供の身体障害者用の宿舎もあった。
いつも車椅子に乗せられた子供達が、宿舎から出てきているのを見ては、人はなぜ生まれ、過酷な人生を生きるのか?
言う素朴な疑問がいつも浮かんできていた。

また「望みの家」と言う施設のネーミングが、なぜかヤケに矛盾を感じて、子どもながらに、あの施設の前に行くのは、屋上遊びよりも、不思議に胸騒ぎがしていた。



 いつだったか、屋上の遊びの他にも「危険な冒険の遊び」を発見した。
まあ、大体こう言う無謀な遊びを仕掛けるのは、双子の姉ではなく、わたしだったのだが。
そのこれから話す「危険な冒険遊び」を一年ほど続けて楽しんでいたが、とうとう失敗しこの遊びが私たちの遊びリストから削除された事件が起こった。

その代償はわたしたちにとって忘れ難い経験だった。
「わたしたちが貯めてきた、全お年玉を一瞬にして失う」と言う大事件だった。
その「禁断の双子遊び」とは、このような事だ。

私たちのマンションの隣りに建てられた経済的に豊かと見られる
「大きなお洒落な一軒家」があった。
その一軒家の外に面した庭には、大粒の石が敷き詰めてあり、オブジェとしては、
大きな高さ1メートルはあろうと思われる「大きな顔のみの石の彫刻」が建てられいた。

しかもその「あくび大顔の彫刻」は、私たちのマンションの方角を向いていたので、私たちはいつも学校の帰り道、塾や習い事の帰り道には毎日数回その前を通らないとならなかった。

「あくびの顔」が、置いてある石庭と、マンションのガレージの段差は1メートルもなかったので、簡単に子供達が上り下り出来るようになっていた。
しかし、私たちはその石庭の上には決して上らなかった。
何故か、登ったら、そのあくびの口の中に、小さなわたしちちの体ごと吸い込まれ、
肉体だけでなく、大切な「魂」まで呑まれてしまいそうに感じた。

その代わり、その石庭のあくびの顔のの口の中に、石を投げて命中させる、と言う奇妙な遊びを思いつき始めた。
一年くらいたっただろうかある夕暮れ時に、わたしが投げた石が、あくびの口を外れて、直ぐそばにあった大きな1枚ガラスの大きな窓の下の方に投げた石が当たってしまったのだ。

と言っても、よく見ないと分からないような、小さな小さなヒビが入った程度だった。
ゲームでは最低点の場所。
しかし、私たちはどうしてもそのまま見て見ぬふりをして放っておくことが出来ずに、
母に告白し、打ち明けた。
母は、隣の人の家に行って事情を説明し、謝りに直接自分たちだけで行くように勧めた。

わたしたちは、謝りに行くのが本当に怖くて、その日はソワソワして何も喉に通らなかった。
わたしが石を投げたのだ。だからわたしが勇気を振り絞って、隣の家のブザーを押した。
そして、イヤホーンがら、
「どなた様ですか?」と言うよそ行きの声が聞こえた。
わたしは、一瞬唾を飲み込み、ドアが開くと、一気に用意していた言葉を吐き出し、思い切って事情を説明した。

家の玄関から出てきた家主と思われるご婦人を見上げた。
お洒落なシルクの服の生地が風にサラリとなびいた。
彼女は、厳しそうな目で小さくなっている私たちを見下げると、先のよそ行きの声とは打って変わって非常に厳しい低い声に変わり、
「何というバカげた遊びをしていたんだ!!親の教育がなっていないからだ!」
と声を荒げ、一緒に小さな5ミリくらいのヒビ?が入ったガラス窓を確認に見に行った。

「この1枚ガラスを交換しますから、弁償してもらいますから、親を直ぐに連れてきなさい!!」と怒鳴られた。
5ミリも満たない小さなヒビのために、縦2メートル、横3メートル近くもあろうと思われる1枚ガラスを弁償するということは、相当な金額を支払わなければならない、と言うことだった。
そんな訳で私たちの何年分も溜めて来たお年玉の郵便貯金通帳は、1日にしてスッカラカンになってしまった。

 こんな風に、「命」や「お金」をかけた遊びで相当痛い目にも遭ったりしたが、
しかし、わたしたちはどんな環境や物、でも直ぐに遊び道具にしてしまうことが、出来た。
そんな性格もあり、どんな時にも心から思いっきり楽しんで遊ぶことが出来たし、いつも大きな大切な事を学んでいたように思う。

また、このように自由に遊ぶ事をいつも大らかに見守り続けてくれた母に、心からの感謝をふたりから捧げたい。もちろんいつも不在ではあったが、父にも感謝している・・・。

「双子の秘密」2000年5月著 

エッセイはここまでだ。
最後まで読んで下さりありがとうございます😊

今日の音楽は、2013年夏に双子ライブをした時のビデオをお届けします👩‍❤️‍💋‍👩

母が1990 年に書いていた「ゆめ」と言う詩にメロディをつけました🌙




2020年5月11日月曜日

双子の秘密👩‍❤️‍💋‍👩

おはようございます☀🌏
尺八シンガー クレアシオン桂のブログをいつも読んで下さりありがとうございます😊
今日も、20年前に書き溜めていたエッセイから、編集カット無しでご紹介したいと思います😙
が⁉️今回は長いエッセイなので、二回に分けて、お届けしたいと思います🙆‍♀️
自分で読み返しても、笑いますのでご覚悟下さい😅

双子の秘密」



私は、双子の姉とたった2人だけの姉妹である。
私たちは中学3年生まで一緒に暮らしていた。
しかしそれから10年以上の時を隔てた今でも、仲の良さは変わらず、益々深まっているほどである。

私たちのような一卵性双子は、医学的には遺伝子は同じ、とされている。
しかし性格は、育った環境や経験の違いなどで大きく変わってきているのは確かだが、
磁石のプラスとマイナスのように、お互いが切っても切れない関係のようだ。

 私たち一卵性双子の間には、親子の関係よりも強い「何か」を持っているようだ。私たちの意思疎通は、母親のお腹の中に入る前から交わされていた。実際本当に私たちの記憶として残っているのだ。
この話を何度となく、母親に話したそうで、私は話した覚えはないのだが、母親は何度も聞かされた、と言っている。
 私は、はっきり覚えている。

母親と父親を空のずっと上の方から、双子の姉となるべき魂と共に、見守っていたことを。
そしてある日、双子の姉の魂と無言のまま、
「あそこに行こうね、!」
と、当時新婚の父や母の住むマンションの上空で会話を交わし、大きく二人で頷き合ったのである。
つまり、私は今回の人生は、あの家に行くことに決まっているのだから、と生まれる前に既に双子の姉の魂と承諾を交わしていたのだ。
この話を全く当たり前のように母親にしていたそうなのだが、私はいつ話したのか、
全く覚えていない。
話した事を忘れて、今になっても時々母親に話したくなるのだ。
もちろん、この記憶は双子の姉にも当然あるようだ。
母親のお腹に入る前の話だが、魂はすっかり完全だったことも覚えている。



お腹の中に入って、すっかり小さくなってしまった肉体に入るのは、実はは苦労の人生への始まりの一歩だったのだが、それでも多くの未知なる経験を求めて、私たちは窮屈な小さな母のお腹に入り込んだ。

そう言う母も、一度まだ、私たちを産む10年以上も前の高校生の時分に、ブランコを漕いでいると、両サイドの誰もいないはずのブランコから、小さな子供の笑い声が聞こえたそうで、後に行く事になるから、よろしくね、と二人の子供のような妖精のような誰かが挨拶に来ているようだったと言っている。確かに、時はあるようでないのかもしれない。

 私たちは、同じ卵の中に入っていたので、1人分の狭い子宮に2人で入っていたので、本当に窮屈で、実際1ヶ月早く、二人合わせて1人分の重さで産まれてきた。特に私のほうは、母親のお腹から、足から産まれてきた逆子だったので、息が完全に止まって産まれてきてしまい、産声もあげずに数分後に息をし始めたそうだ。

それから1ヶ月の間、保育器に2人で入っていた。
とにかく、いつも一緒だった。
私たちは6歳になるまでほとんど口を開かず、愛想の悪いかわいげのない子供だった。
今でもかわいげの無い所は残っているのだが、、?
しかしそのせいで、幼稚園からは本当に入園を断られてしまったくらいだ。

実際に私たちにとって初めての集団生活は小学校からだった。実際私たち双子の間には、面倒な会話など必要ではなかった。
そんな会話などしなくても、すべて通じてしまうので、いつも無言の会話をしていたからだ。
 

ゾクに言う「テレパシー」、というものだろうか。そうなのかもしれない。どんな遊びをしたいか、今何を思っているのか言葉で出さなくてもすぐにお互いが分かってしまう。
だから、キャッキャッキャッキャと子供らしく健康的に遊んでいるのなら、隣の部屋にいる母親も安心しただろうに、全く声も音もたてずに静かに遊んでいるので、いつも寝てしまったのかな?と思って、そっと部屋を覗いてみると、まったくひどい有様なのだ。

一体いつ音も立てずに、声も立てずに、このようなひどい遊びが出来るのだそうか、と大人達は感心してしまうほどだった。
その状況と言えば、洋服ダンスの引き出しは、階段状態に器用にすべて上まで開けられ、服はすべて取り出されては放り出され、母親の鏡台の中の化粧品はすべて開けられたまま。
絨毯はクリームだらけ、ティッシュは新しい箱が、何箱も開けられ、雪のように紙が
ちりばめられている。
ベットの上で、トランポリンをして飛び上がっている二人の顔は、母親の口紅が塗ったくられて、口は真っ赤になり、まるでピエロのようではないか!

これだけの悪さを、笑い声も立てずにやってのける小さな二人は、まるで小悪魔のようだ。それでも忍耐強い母は、決して怒ったり、大声を出して、叱ったりしなかった。もちろん、母が強く叱ったりすることは多くあった。

しかし、母の叱る事と言えば、私たちが他人に対して傷つけるような事を言ったり、また、人にも自分自身にも正義感の無い行動を取ったり、また自分自身や人にに対して半端な事をしたり、無責任な行動を取ったり、そう言うときには、徹底的に一日中廊下に正座させられて、分かるまで説教されたものだ。食事の時間が来ても、関係なく分かるまで説教は続く。とにかく母は中途半端な事が嫌いなのだ。
だからこそ、半端でなく徹底的に小悪魔になって部屋で、想像もつかないくらいの遊びを発見して、遊んでいる私たちを決して規制したりはしなかった。

 私たちには、子ども用?のおもちゃなんてモノはずっと無かった。
大体「おもちゃ」の存在すら知らなかったし、テレビも家には置いてなかったので、
私たちの遊びと言えば、私たちの考えた独自の遊びが主だった。
その恐ろしい遊びや夢中になっていた遊びを、今いくつか紹介するとしよう。


 まず、小学校に上がるまでは、例によって幼稚園の入園を断られたので、
家や家の目の前の墓地や屋上などでほとんどを過ごした。

その遊びとは、家の中の場合は、ほとんど絵を描いて過ごしていた。絵と物語を一緒にした、絵本を描くことは、私たちの一番の遊びの中心だった。
その他、小学校に上がると、ピアノも習い始めた。

最初の1年間はピアノが家に無かったので、紙鍵盤を二人で作成して、テーブルの上に置き、ホロビッツか、誰か有名なピアニストのレコードをガンガンにかけて、一人が紙鍵盤のピアノの前に頭を垂れて、いかにも陶酔しきっているふりをした「ピアニスト」になりきってもう一人は、そのピアノコンチェルトの音楽に合わせて、猛烈に指揮を振っていた。
コンチェルトの全楽章が終わると、もう二人は汗だくになってぐったりしていた。

 また他の遊びとは、二人の20本の指を組み合わせて、色々なキャラクターを決め、名前も付けてその指を指人形のように動かしながら、それに連載の物語を作ることだ。
これは、毎晩寝る前の30分、押入を開拓して、作った2段ベットの布団の中に入ってからお互いが身を乗り出して、行う儀式だった。

 他の遊びと言えば、二人がそれぞれ一人20役くらいを掛け持って、家で学校を経営していた。
その名も「世界コンクール学校」。
ライバル意識の高い、色々なキャラクターの持つ音楽学生たちが集まり、そのキャラクターによって名前も決められ、出席簿まで作られていた。先生も教科によって、様々なキャラクターの先生もいたし、しかもそれぞれの生徒の親まで決められていたので、もう1人が20人以上は確実に演技しなければならなかった。

実際はたったの2人しかいないはずだが、私たちの想像の世界では、50人以上が織りなす人間模様が、毎日現実と共に並行に生き続けていた。その授業も、狭いマンションの廊下で行われた。
廊下と言っても、キッチン、寝室、書斎、の3つの部屋の入り口のドアがある分だけの長さしかない、狭い廊下なので、私たちがそんな狭い廊下で、学校ごっこなど座布団を敷いて行っているだけで、誰も通れない状態で、キッチンへ行くにも、書斎へ行くにも、寝室へ物を取りに行くにも、母は私たちが邪魔で仕方なかったはずだ。
しかしそれでも、決して、母は
「こんな所で遊ぶのは止めなさい、書斎や寝室や外へ行って遊んだらいいじゃない?」
とは言わない。
それどころか私たちの想像の世界を徹底的に思いっきり夢見させてくれたのである。

 私たちは、その狭い廊下が大変気に入っていた。人がどう思おうと、その狭い廊下は、私たちにとって、素晴らしい「舞台の壇上」だったのだ。
だから、その廊下では、月に何度かは、演劇も披露された。
いつだったか、ジャンコクトーの「声」と言う演劇を母と見に行った。

出演はたった一人で、ベットに横たわる熟女が夜中にかかってきた、男からの電話で長電話になり、泣いたり笑ったり、激怒したり、と人間の様々な情緒を現している、一人芝居である。
私たちはこの演劇をすっかり気に入ってしまい、家に帰ると早速、狭い廊下に演劇のセッティングを準備した。
ベットの代わりに、書斎から長いソファーを運び、電話台とスタンドが脇にセットされ、電話を置き、毛布を寝室から持ってきた。

もうこのセッティングだけで、人が通れないくらいに廊下はいっぱいになってしまった。それから、出演は希望者、と言うことで、私に決まり、私は、スリップ1枚になって、ソファーに横たわった。
端から見ると、全くの子供、と言うよりは寧ろ園児生、なので、色っぽさも全くないのだが、私はすっかり色っぽい熟女になりきって、スリップ姿でソファーのベットに気だるそうに寝ていた。
そして、廊下の電気が消され、姉のナレーターが始まった。


 「今日は、ようこそ「声」の舞台においで下さいました。
どうぞ、ごゆっくりご覧下さいませ。」と言って、キッチンのドアがガラガラと開けられ、キッチンのダイニングテーブルに座っている母と父の姿があった。
この準備の間、キッチンに閉じ込められていたので、トイレや寝室、書斎にも行けなかったことになる。
それでも、父も母も文句も言わずに、待っていてくれたのだ。
 私は、台本などは何もなかったので、最初の電話のベルを姉が口で鳴らすと、私は3回くらい鳴った後、気だるそうに身をソファーから乗りだし、スタンドを付けた。ようやく暗い廊下には、どういうセッティングになされているか、父も母も気が付いて、、まだ何も演技は始まっていないとうのに、もうばか笑いして、大受けしていた。私はその笑いも気にせずに、そして、「もしもし」と、出来る限りの色っぽい声を出してみた。

その瞬間にも母も父も大笑いしていた。あまりの背伸びした「色気声」が不似合いで、滑稽だったのだろう。
しかし、私はもうすっかりはまり込んでいた。
もう誰にも止められないほど、この熟女になりきっていたからだ。私は、最初は電話の相手の男であろう人と、穏やかに話していた。
しかし、だんだんと、声を荒げ、怒り狂ってきた!
もうソファーから完全に立ち上がり、毛布を蹴落とし、狭い廊下で手を振りかざして、怒鳴りまくっていた。
しまいに、よく母と父が夫婦喧嘩するときの、決まり文句なども勝手に出てきてしまい、何が何だか分からないが、台本が無いのでもう止められない状態になっていた。これを見てもう父も母もお腹をよじって笑っていた。

もうこのまま笑いすぎて息が止まってしまうのではないか、と思われるほどだった。しかししばらくすると、相手の男はどのように熟女をなだめたのか、女心をくすぐるうまい言葉でも囁いたのか、ようやく熟女のヒステリーもおさまってきて、今度はシクシク泣き出してきた。
次第にシクシクが今度は大声を上げて泣き出し始めたかと思うと、もう泣きわめいて叫んでいた。
まったくこの女は、
「女はこれだから、めんどくさいんだよな⁈」
と言う世の男達の声が聞こえてきそうな熟女モドキ。
そして、ようやくこの小さな熟女は泣き疲れたと見え、今度は笑い出してきた。
舞台の設定では、夜中だと言うのに、近所迷惑も考えずに、声高らかに笑っていた。女は世界一の幸せ者のように笑い続け、舞台は幕を閉じた。


「双子の秘密」第一部はここまでになります👩‍❤️‍💋‍👩

続きは、明日のブログにアップしますので、また遊びに来てくださいね🤲

今日の音楽は、55日間続いたロックダウン最後のおうちでライブ録音シリーズの
新曲「扉 PORTE」です🎤🎧

2020年5月10日日曜日

9歳の初めての入院💉

こんばんわ🌙🌏
尺八シンガー クレアシオン桂のブログをいつも読んでくださりありがとうございます🤲
段階的なロックダウン解除まで、あと2日に迫りましたが、
せっかく内観的に始めたブログですので、このまま続けていくいきたいと思っておりますので、皆さま時々遊びに来て下さいね😅

部屋の窓から見る夕焼けも、毎日違って楽しい時間に😚

今日も前回に引き続き、20年前に書き溜めていたエッセイから、セレクトして
ご紹介したいと思います‼️

初めての入院」


と言うタイトルです💉 

私は9歳のときに西洋フルートを習い始めました。
小学校で習い始めるリコーダーの時間がとても楽しみで、
中休み外に遊びにもいかず、教室に残り、一生懸命練習してたのを思い出します🎹

6歳から、双子の姉と、ピアノを習っていたのですが、家にはアップライトピアノが1台しかなかったので、いつも双子の姉が、トイレの休憩に席を外した時しか、練習できない
事に、苛立ちともどかしさを覚えていたので、

親にお願いをして、自分だけの持ち運び出来る楽器を習いたくなったのです🎻
バイオリンに憧れましたが、高そうなのと、9歳からでは遅いだろう、と感じて
フルートを選びました。

ところが‼️ フルートを始めて半年が経ち、小柄でまるで幼稚園生のような
わたしは、重い肺炎にかかってしまいました🤣

今回は、そんな人生初体験だった入院生活を振り返り、書いたエッセイです🙆‍♀️
編集カット無しで、そのままお届けします😉



わたしは、今真っ暗な静まり返った集団病室で、手元の小さな豆懐中電気のわずかな明かりの下で、双子の姉に手紙と、小さな小物入れを左手だけで作っていた。

なぜなら右手の甲には、しっかりと太い点滴の針が刺さっており、その太い針の先には、透明のパイプが通っており、さらにその先には、大きな1リットルの黄色い液体の入った瓶がベットの脇に吊されていたために、自由に右手を使うことが出来なかったからだ。

それでもわたしはこの夜中の作業が唯一の楽しみだったのだ。
しかも明日の夕方には、母が見舞いに来てくれることになっているので、その時に間に合わすために、今夜なべをしている、というわけだ。

そもそもわたしはなぜ、このように入院することになったのかを説明しておくと、わたしは「重度の肺炎」、ということだった。

しかしわたしは、実際この病名が、果たして本当に自分自身に起きている病気なのか、信じられなかったのだ。
なぜならわたしは全く苦しくもなく、全く元気な状態で、何上にこのような病院に、一日中右手と左手に交互に点滴を受けながら、お風呂にも入れずに寝ていなければならないのか、全く見当もつかなかったからだ。

周りを見回すと子供たちばかりのようだ。しかし、隣の子供たちと話すことも、あまりおもしろいとも思えなかったし、2週間も学校を休めば、授業に遅れを取ることが一番気になって仕方なかったので、毎日昼間は教科書ばかり開いていたので、本を読むと、疲れるので読み過ぎないように、といつも看護婦に注意された。


わたしは、病院に対して一つの「秘密」を持っていた。
わたしはこの「秘密」を行うことによって、無意識にも医者というものを観察し、確かめてみたいことがあったのかもしれない。

この秘密はとうとう最後の退院の日まで続けることになってしまった。
そして最後には、この「秘密」を行ったのにもかかわらず、わたしは退院できたことに、密かなるわたしの勝利を感じることができた。

一体のこの「秘密」とは何だったのか?と言えば、それは大したことのない、寧ろ恥ずかしく、小さなことと、わたしは思っていたのだが、実は根本的な大きな決断だったのかもしれない。

 その「秘密」とは、わたしは、入院した最初の日から、「薬」を飲まなかった。
それは、西洋医学を信じていない、だとか、薬を信じていない、と言う子供ながらの徹底したこだわり、でもなかった。
わたしはまだ小学校4年生だった。

しかし身体の大きさは幼稚園性並だったので、従って、喉のサイズも小さかった。

大きな粒の薬が小さなオチョコほどの病院指定のコップの水だけでは、一度で飲み込めなかった、と言うくだらない理由からだった。

つまり、飲まなかったのではなく、飲めなかったのだ。

しかし一番最初に、看護婦が、ワゴンを病室に運んできて、
「お薬の時間です」と言って、
一人一人のベットにそれぞれの薬を持っていき、お決まりのように薬を配り、
わたしが、その小さなオチョコのようなコップに8分目ほどに入った水だけでは、
5種類くらいもあるたくさんの粉薬や、カプセルやら、大きな粒の薬など、5,6種類もの薬を一度では飲み込めずに、
「もう一杯下さい、、、」と何度も看護婦に頼み、焦れば焦るほど飲み込めずに、
また、「もう一杯、下さい、、」としまいに5回目くらいになると、看護婦は呆れたように不機嫌になり、もう行ってしまったのだ。

わたしは、グチョグチョに粉もカプセルの中身も口の中で溶けだし、他の薬と混ざり始め、苦みに耐えられなくなり、吐き気をもよおし始めたので、悪いとは思いつつも、
わたしはトイレに駆け込み、全部吐き出してしまった。

わたしは、うがいをして、スッキリとすると、何気ない顔をして病室に戻った。
この薬の時間は1日に3回もあった。
2回目くらいからは、今度こそ一度で飲めたいいのに、と覚悟をして臨んだ。しかし、1度目の失敗が足を引っ張り、今度も2杯目を頼むと、今度こそ看護婦は、
「もうこれで終わりですよ!」
と言って、またもや忙しそうに行ってしまった。

わたしはやはり口の中はグチョグチョだったが、
思わず、ニコッと笑って大きく頷き、「もうOK!」という素振りをした。

それからというもの、わたしは一杯目で、飲み込んだふりをして、看護婦に大きく頷くことにしてしまった。
そしてその後必ず、吐き出していた。

とうとうわたしは入院中の2週間の間「薬」を飲むことはできなかった。



しかしおもしろいことに、2日おきくらいに、医者が看護婦と共に、診断に来たのだが、わたしを診断したあと、看護婦に何の薬を飲ませているかを質問し、難しい専門用語言うと、医者はすました顔で、
「うん、薬が効いているようだな。」と言って、
わたしのカルテに何かを書き込んでいた。

わたしは、笑いをこらえるのに必死に真面目な顔して、病人のように弱々しく医者の質問に答えた。
医者も看護婦も、真面目な顔を崩すことなく、しっかりと仕事をしていた。

 わたしはその内に病院生活をエンジョイすることにした。
 そして幸いにも、1週間もの間続けていた、トイレに行く時も外せなかった点滴も、
大分良くなっているので、外してもいいということになった。

右手と左手に交互に刺していた、点滴の跡は真っ黒になっていて、手全体が痛くなってしまったほどだ。肺炎の自覚は全くないが、この点滴の針を刺している手が一番痛かった。

なぜ、このような重い肺炎になったのかは、病院の説明によると、まだ小さな身体なのにフルートを吹いているのが原因だ、ということだった。
確かにわたしは小さいながらも小学校の4年生に入ると、縦笛の好きだったこともあり、フルートを始めた。


私がフルートを始めた理由は至って単純なものだった。
私と双子の姉は、6歳からピアノ習い始めたのだが、姉の方が真面目に練習していたこともあって、進みが早かった。

始めはそんなに違いはなかったのだが、小学校3年にもなると、姉とわたしは、練習している曲に大きな差が出始めたのだ。

しかしピアノが同じ年の姉から、どんどんと差を付けられても、あまり競争心などは湧かなかった。
大体、小学校2年の時に祖母からプレゼントされたアップライトのピアノを、学校から帰ってきたら独り占めするのは姉だったので、わたしは練習する時間が姉の半分以下しか残されていなかったのだ。
わたしはもう姉と争うのをさっさとあきらめて、何か姉のやっていない新しい事やりたい、と母に頼んでみた。

姉がピアノを弾いていても、その間に誰にも取られない楽器を。だからその時のわたしには何でも良かった、と言ってもいいかもしれない。
わたしはその頃すでに、自己流で絵を描くのが趣味だった。
姉がピアノをいつものように弾き出すと、わたしのアトリエにさっさと潜り込んだ。
わたしのアトリエは押入の中を改造した小さな絵を描く専用の部屋だった。

わたしは身体が小さかったので、その部屋に何時間籠もっていても、一向に平気であり、寧ろ楽しかった。
わたしは、母の集めていた、ルーブル美術館全集を第一巻から順に、模写し続けたりした。

押入の中は昼間でも真っ暗だったので、小さな専用のスタンドも用意してくれた。
わたしはこの部屋が、大のお気に入りの部屋だった。
わたしが一番自分らしくいられる場所。
ホントは鍵まで付けたかったくらい、、。

ピアノは止めたくなかったけれど、その頃学校の音楽の授業で始まった、リコーダーの時間はわたしの大好きな時間だった。

そんな理由もあってフルートを始めることになった。


しかし、実際に初めてワクワクする心を抑えながら、渋谷のヤマハの音楽教室に行った時には、まず身体が小さいこともあるので、フルートをかまえても指が届かないだろうし、しばらく身体が大きくなるまでは3つに分かれるフルートの楽器の歌口部分の頭部管の練習しかさせてくれなかっのだ。

わたしはがっかりしてしまった、、
すぐにも、あの銀色の長いキラキラ光る美しいフルートの音を出せるのかとばかり、
楽しみにしていたので、頭部管だけしか触らせてもらえないことは、ひどく悲しみ、
落ち込んでしまった。
しかし、悔しかったので、家に帰ってから、わたしは教則本を見ながら、フルートを組み立ててみた。
そして実際ホントに指が届かなかったのだが、必死に延ばして、指と腕がちぎれんばかりに延ばして、運指表に基づいて、実際にフルートをかまえてみた。

そして小さな身体が、だんだんとしびれてきたのだが、それでも頑張って吹き続けた。
美しい音には程遠く、「ため息」のような、風のような雑音だった。

それでも5分ほど吹き続けていたが、次第に酸欠?なのか目眩がしてきて、床に倒れていた。
子供だったこともあり、自己流で吹いたので、呼吸法がきちんとしていなかったようだ。おそらく肺で、ラジオ体操の要領で深呼吸をして吹いていたので、気がつかないうちに、酸欠になっていたのであろう。
そんなほとんど、練習とは言えない意地の練習を、半年も続けていた頃、
わたしは、「重い肺炎」らしき?病になり、入院することになったのです。
周りの先生や大人たちは、母を除き、
「こんな小さな身体で、フルートを習わせるとは、残酷だ!」
と心配してくれ、医者たちも「このように小さな身体では、気管支も弱い事だし、やめたほうがいいですな、」と言った。
しかし、わたしとしてはフルートをやめるも何も、まだソ、ラ、シ、ド、のたった4つの音しか習っていない状態で、フルートをやめる?なんて、冗談じゃない、と内心怒っていた。
わたしは退院したら、その日から吹いてやる、と鼻息を荒くした。

 しかし、やはりどうあがいても、肺炎の原因はフルートとしか考えられなかったようだ。わたしは、この唯の棒に穴があいただけとも見える、「フルート」にやられてしまった事がなんだか悔しかった。

 元々、病院が大嫌い、なわたしだったし、しかも初めての入院で、最初の日から、
血液検査や、点滴のために太い針ばかり、腕や手に刺されるし、大好きな風呂にさえ入れなかったので、身体を看護婦が拭きに来てくれるのも、正直言ってイヤな時間だった。

そんな訳で、病院での唯一の楽しみと言えば、
夜中にちょっとした手仕事(と言っても小物入れなどを手縫いで縫うなどのこと)をしたり、手紙を書いたりと、
冒頭に書いたような事をすることだった。

わたしは毎晩、夜勤の看護婦に見付からないように、上手に手仕事を行っていた。
大抵は、足音がすると、わたしは小さな懐中電灯を消し、寝息を立てて寝たふりをしたので、見付からずにすんだ。
しかし、計3回ほど、見付かって怒られた。
その度に、「もういい子に寝ます」、と看護婦を安心させて、
彼女が行ってしまって足音が聞こえなくなると、またそっと懐中電灯を付けて、続きを淡々と行った。

 しかし、考えてみると、薬は一つも飲まなかったし、夜中は手仕事のために睡眠不足、一体何のための入院か分かりゃしない。
しかしわたしは2週間後に、すっかり完治した、と医者にはっきりと言われて、元気良く退院した。
きっとやりたいことを意外にワクワクしながらやっていたので、自然に免疫力がアップしたのかも知れない。

 初めてのこの入院以後、わたしは幸い一度も入院とは縁がない。このまま入院とは縁のない人生であることを願っている。        



  

                                  七段 鶴の巣籠り おうちでライブ

2020年5月7日木曜日

べっこう飴事件

今日はロックダウン52日目、快晴のパリから、こんにちわ🌏
尺八シンガー、クレアシオン桂のブログを読んで下さり、ありがとうございます🤲

毎日想う事、内観をたっぷりする時間を与えられ、頭や心は違う意味で
何と忙しい事か、、‼️



コロナウイルスのパンデミックのロックダウンを機に、内観代わりにブログを書き
始めましたが、夏まで全公演もキャンセルになり、オンライン生徒数人以外は、全く
時間が出来たので、昔のアルバムや、パソコンのファイルなども整理中😅

ちょうど20年前の3月半ば、桜が満開の大好きな春に、突然の事故で最愛の旦那と死別
しました。
今の時期は、四十九日を終えたばかりで、事故以来、呆然と生きる力を失って、半分
暗闇の墓に足を半分突っ込んだように、生きていましたわたしでしたが、
気持ちを落ち着かせるために、

今ブログを書くように、エッセイを書き始めました📗📚🖋

半年くらい書きつづけたり、歌を作ったり、今みたいに何か生み出してばかりいた
時期でしたが、スッキリしたのか、その書き溜めたエッセイは、その後読み返す事も
なく、古いフロッピー(なつかしい🔏〜‼️)の中に、、

その中で、面白い表題のエッセイを見つけました🧐

少し長いエッセイになりますが、修正せずに、そのまま載せますので、
読んでみて下さい🍀

わたしが、生まれた時、仮死状態で生まれましたが、この人生で二度目に
死にかけた時の、5〜6歳だった時の話しが書いてあります。
生と死」
について、改めて考えさせられるエッセイです。



「べっこう飴事件」🍯


  ある日、ふと歯を磨いているときに、鏡の中の自分をずっと見つめていた。
瞬きもせずに数分見つめ続けていると、ふと自分の顔が原始人のような顔に変わって、
ぞっとしたのを覚えている。
小学校もまだ低学年のころだっただろうか。私は、なぜいつも自分のこの鏡の中に映る、小さな自分の肉体と共に動き、この肉体の口を通して喋り、毎日を生き続けなければならないのか?
これは一体どのくらい続くのだろうか?
永遠?なのだろうか?
それとも終わりの日がいずれ来るのだろうか?
そんな疑問が起こり始めたのは、小学校も上がる前には感じていたのを、
はっきりと覚えている。
そんなある日、一つの事件が起こった。

 私と、双子の姉は、いつものように両親の寝室のベットの上で、トランポリンのように跳ね上がって遊んでいた。
このトランポリン遊びは大のお気に入りの遊びで、いつもストレス発散のために、行われていた。
その日も、いつもと何も変わらない穏やかな時間が流れていた。
 私は、先日誰かからもらったと言う、平らな大きな「べっこう飴」を母にもらいにいった。なかなかな美味で、双子の姉の分もあるので、2つほどもらいに行った。
母からもらうと私は早速、自分の小さな口の中にはちょっと大きすぎるくらいのこのべっこう飴を口に放り込むと、姉の所へ持っていき、姉にも渡した。
姉も小さな口の中へそれを放り込んだ。

By Takako Hirano 


 しばらくは、二人キャッキャと騒ぎながら、トランポリン遊びをしていた。
私は笑い出すと止まらない、と言うか、笑いすぎて身体ごとひっくり返ってしまう、
というお行儀の悪い癖があった。
その時も、あまりの楽しさに、まるで雲の上で飛び跳ねている気分になっていた。
小さな口を精一杯大きく開けて笑っているまさにその時、突然のように、私はそのまだ大きな平べったいべっこう飴を呑み込んでしまった。
と言っても、まだべっこう飴は完全に飲み込めるほど小さくはなっておらず、しかも私の喉はまだまだ細かったので、ちょうど喉の奥に完全にはまってしまった。
私は急にだんだんと息が出来なくなってしまった事に気が付き、慌てて姉に
「無言の緊急メッセージ」を送り、そのままベットから降りて急いで隣りの部屋にいる
母の元へと飛んでいった。

 そして「喉に飴が・・・。」と苦しそうに事の次第を告げると、
母は急に真顔になって私の喉の奥を見ると、相当奥に入ってしまっているらしく、
私をうつ伏せにさせて背中を叩いたり、色々と試みたがうまくいかなかった。
その内に慌てた母もマンションの管理人の所へ上がっていき、助けを求めた。
この騒ぎに何事か、とマンションの隣の住民も心配そうに出てきた。
こんな時には水を飲ませたら、と言う恐ろしい助言も聞き入れてしまい、
私はガブガブと水を飲まされ、益々、奥のべっこう飴はしっかりと奥で固まってしまい、返って逆効果だった。
管理人は今救急車を呼んでいるから、と叫んでいたが、当人の私はもう息が出来ない猛烈な苦しみで、ああこれで私の命も終わるのかな?
と初めてぼんやりと思ったことを覚えている。



 そのうちに私は気が付くとマンションの踊り場に出ていて、母を含めた3,4人のあたふたとしている大人達の姿が次第にぼんやりとしてきて、気が付くともう「苦しさ」は無くなっていた。
 「ああ、なんだ、私はもう全然苦しくなくなったから、そんなにみんな慌てないで。」、と叫ぼうとしたが声が出ないのだ。
しかし、よく周りを観察してみると、今まででと少し感覚が違う事に気が付いた。
なぜなら、私は青ざめ、紫色に変色した顔をした私自身を、マンションの踊り場の少し上の方から、何となく空にフワフワと飛んでいるような形で、覗き込んでいたからだ。
しかも先には、目の前に見えた母の顔や大人達の姿も、今度はすべて後ろ姿の背中しか、見えなかったのだ。
「あれっ!」、と私は少し不思議に思った。
「べっこう飴を呑み込んで苦しかったんじゃなかったっけ?でもそれは、双子の姉の方だったのかな?」
と本気で一瞬思ったりもした。

 いつも同じ顔を目の前に見ることには、慣れているので、それほどこの変化にはびっくりしなかった。
そこにいるのは、双子の姉?
でも姉はしっかりと、青ざめた紫色の顔をした私の側にくっついて、心配そうに見守っているではないか?
 でも大人達みんなは、みんなを後ろから見守る私自身には誰も気が付かないらしく、
人形のような、小さな青ざめた「誰か」のために一生懸命だった。
「誰か」は「私自身」 だとは、決して思えなかった。
なぜなら、私自身は、この「私」であって、今みんなを見ている「この自分」しか有り得ないからだ。
 その時急に、私はいつも一緒に行動していた肉体から、「とうとう離れている」、とういう現実に気が付いた。
私が今まで何度となく、抱いていた疑問が今まさに分かろうとしていた。



 その時だ。急に、沢山のパンが、母の手によって私の小さな口に押し込まれて、私の口は「口裂け女」になってしまうかと思われるほどに感じ、急にまた咳き込むような、
息苦しさを感じて、私はまたもや、この小さな肉体の中に入り込んでいた。
また、前のように母の顔が目の前に現れ、3,4人の大人達の顔が目の前に押し寄せていた。
 「カコ!」 
と言う懐かしい双子の姉の声も聞こえた。
ああ、私はまたこの小さな小さな肉体と共に動いていかなければならないのか、
と少し残念にさえ思った。
先ほどは、何だか身軽になったようで、そのまま、空を飛んでいき、宇宙へまでも旅出来そうなくらいな自由な感覚で、とても気持ちよかったのに・・・。

 私の残念な気持ちとは裏腹に、母や大人達は、歓声を挙げて、息がまた出来るようになり子供らしい赤い顔に戻った私を見て、にこやかに笑っていた。
しかし、いつの間にか不思議にも元の肉体に戻ってしまった瞬間には、先の事がぼんやりとしてきて、とうとう忘れてしまった。
その後、20年以上も経って、ある事をきっかけに思い出すまで、私はすっかり記憶の部屋に、この記憶は閉じ込められていたままだった。



 後から聞いた母の話によると、管理人が救急車を呼んだ、と言ったが、救急車が来るまで私をほっといたならば、きっと窒息死してしまうだろう、と咄嗟に感じ、何とかせねば、と必死だったと言う。
しかしだんだんと顔色は青ざめ、紫色に変色し、土気色に変わってゆく私を見て、この子、本当に危ないかもしれない、と思ったそうだ。
もしかしたら本当にあの肉体を離れている瞬間と言うのは、一瞬ではあるが実際に息が止まり、私はこの世で言われる「死」の入り口に入りかけていたのかもしれない。

 とすると、「死」は決してすべてが暗黒の「無」になってしまう恐ろしい事ではないのではないか?
あれから20数年経って、ふとあの時の記憶を思い出した時には、あの瞬間は、限りない自由への入り口のように感じ、とても身軽だったのを思い出したのだ。
あんなに簡単で、まるで隣の家に遊びに行くような感覚で、とても自然なことが、
「死」ならば、「死」は決して終わりではなく、寧ろ「始まり」なのではないか?
どんな宗教を信じていようが、また無神論者であろうが、自然主義者であろうが、動物愛好家であろうが、人に共通していることとは、
「人の命は決して終わらない永久のものである」
と言う事ではないだろうか? 



そのことに気が付いてからは、私は前に漠然と「死」に対して疑問や不安を抱いていた時よりも、心が自由になり、生きることがいつもいつも楽しくなってきたようた。
心から生きている事が嬉しくなっているのだ。
たとえ苦しいことがやってきても、あの時に苦しんで青ざめている自分の肉体を、冷静に上方から客観的に見守る私自身のように、いつも冷静に受け止めるられるようになってきたようだ。

 もちろん、怒ったり、悲しんだり、嬉し泣きをしたり、腹を立てたり、と言う人間的な感情が無くなってしまった、という意味ではない。
寧ろ前よりも、そう言う感情の変化を敏感に自分自身が感じ取れるようになってきているのだ。
しかもその感情の変化さえも、常に冷静に、そして客観的に見守る自分が常に存在するので、決してその自分自身がその感情の虜になってしまう心配は無かった。
つまり、「感情のために自分を見失ってしまう」、ことが無くなったので、
見えない「力強い太い柱」が常に自分の中に立っている、そんな感覚だろうか?
だから、どんなときにも「恐れる心」が無くなってきたのだ。
「長い人生、何か起こって当然」、と見ているので「何かが来るかもしれない」
と言う恐れはもう存在する必要が無いのだ。
これは単純なことのようで、しかし人生を幸せにしてゆく重要なポイントであるような気がする。 
 「すべては益に変わる」と言う聖書の箇所がある。
私の好きな箇所である。
人生において無駄なことは一つもない。だから、その時には無駄に思えることでも、
精一杯、楽しんで力を尽くして取り組んでいきたいと思っている。



長いブログになりましたが、共有して頂きありがとうございます🌏