尺八シンガー クレアシオン桂のブログをいつも読んで下さりありがとうございます😊
今日も、20年前に書き溜めていたエッセイから、編集カット無しでご紹介したいと思います😙
が⁉️今回は長いエッセイなので、二回に分けて、お届けしたいと思います🙆♀️
自分で読み返しても、笑いますのでご覚悟下さい😅
「双子の秘密」
私は、双子の姉とたった2人だけの姉妹である。
私たちは中学3年生まで一緒に暮らしていた。
しかしそれから10年以上の時を隔てた今でも、仲の良さは変わらず、益々深まっているほどである。
私たちのような一卵性双子は、医学的には遺伝子は同じ、とされている。
しかし性格は、育った環境や経験の違いなどで大きく変わってきているのは確かだが、
磁石のプラスとマイナスのように、お互いが切っても切れない関係のようだ。
私たち一卵性双子の間には、親子の関係よりも強い「何か」を持っているようだ。私たちの意思疎通は、母親のお腹の中に入る前から交わされていた。実際本当に私たちの記憶として残っているのだ。
この話を何度となく、母親に話したそうで、私は話した覚えはないのだが、母親は何度も聞かされた、と言っている。
私は、はっきり覚えている。
母親と父親を空のずっと上の方から、双子の姉となるべき魂と共に、見守っていたことを。
そしてある日、双子の姉の魂と無言のまま、
「あそこに行こうね、!」
と、当時新婚の父や母の住むマンションの上空で会話を交わし、大きく二人で頷き合ったのである。
つまり、私は今回の人生は、あの家に行くことに決まっているのだから、と生まれる前に既に双子の姉の魂と承諾を交わしていたのだ。
この話を全く当たり前のように母親にしていたそうなのだが、私はいつ話したのか、
全く覚えていない。
話した事を忘れて、今になっても時々母親に話したくなるのだ。
もちろん、この記憶は双子の姉にも当然あるようだ。
母親のお腹に入る前の話だが、魂はすっかり完全だったことも覚えている。
お腹の中に入って、すっかり小さくなってしまった肉体に入るのは、実はは苦労の人生への始まりの一歩だったのだが、それでも多くの未知なる経験を求めて、私たちは窮屈な小さな母のお腹に入り込んだ。
そう言う母も、一度まだ、私たちを産む10年以上も前の高校生の時分に、ブランコを漕いでいると、両サイドの誰もいないはずのブランコから、小さな子供の笑い声が聞こえたそうで、後に行く事になるから、よろしくね、と二人の子供のような妖精のような誰かが挨拶に来ているようだったと言っている。確かに、時はあるようでないのかもしれない。
私たちは、同じ卵の中に入っていたので、1人分の狭い子宮に2人で入っていたので、本当に窮屈で、実際1ヶ月早く、二人合わせて1人分の重さで産まれてきた。特に私のほうは、母親のお腹から、足から産まれてきた逆子だったので、息が完全に止まって産まれてきてしまい、産声もあげずに数分後に息をし始めたそうだ。
それから1ヶ月の間、保育器に2人で入っていた。
とにかく、いつも一緒だった。
私たちは6歳になるまでほとんど口を開かず、愛想の悪いかわいげのない子供だった。
今でもかわいげの無い所は残っているのだが、、?
しかしそのせいで、幼稚園からは本当に入園を断られてしまったくらいだ。
実際に私たちにとって初めての集団生活は小学校からだった。実際私たち双子の間には、面倒な会話など必要ではなかった。
そんな会話などしなくても、すべて通じてしまうので、いつも無言の会話をしていたからだ。
ゾクに言う「テレパシー」、というものだろうか。そうなのかもしれない。どんな遊びをしたいか、今何を思っているのか言葉で出さなくてもすぐにお互いが分かってしまう。
だから、キャッキャッキャッキャと子供らしく健康的に遊んでいるのなら、隣の部屋にいる母親も安心しただろうに、全く声も音もたてずに静かに遊んでいるので、いつも寝てしまったのかな?と思って、そっと部屋を覗いてみると、まったくひどい有様なのだ。
一体いつ音も立てずに、声も立てずに、このようなひどい遊びが出来るのだそうか、と大人達は感心してしまうほどだった。
その状況と言えば、洋服ダンスの引き出しは、階段状態に器用にすべて上まで開けられ、服はすべて取り出されては放り出され、母親の鏡台の中の化粧品はすべて開けられたまま。
絨毯はクリームだらけ、ティッシュは新しい箱が、何箱も開けられ、雪のように紙が
ちりばめられている。
ベットの上で、トランポリンをして飛び上がっている二人の顔は、母親の口紅が塗ったくられて、口は真っ赤になり、まるでピエロのようではないか!
これだけの悪さを、笑い声も立てずにやってのける小さな二人は、まるで小悪魔のようだ。それでも忍耐強い母は、決して怒ったり、大声を出して、叱ったりしなかった。もちろん、母が強く叱ったりすることは多くあった。
しかし、母の叱る事と言えば、私たちが他人に対して傷つけるような事を言ったり、また、人にも自分自身にも正義感の無い行動を取ったり、また自分自身や人にに対して半端な事をしたり、無責任な行動を取ったり、そう言うときには、徹底的に一日中廊下に正座させられて、分かるまで説教されたものだ。食事の時間が来ても、関係なく分かるまで説教は続く。とにかく母は中途半端な事が嫌いなのだ。
だからこそ、半端でなく徹底的に小悪魔になって部屋で、想像もつかないくらいの遊びを発見して、遊んでいる私たちを決して規制したりはしなかった。
私たちには、子ども用?のおもちゃなんてモノはずっと無かった。
大体「おもちゃ」の存在すら知らなかったし、テレビも家には置いてなかったので、
私たちの遊びと言えば、私たちの考えた独自の遊びが主だった。
その恐ろしい遊びや夢中になっていた遊びを、今いくつか紹介するとしよう。
まず、小学校に上がるまでは、例によって幼稚園の入園を断られたので、
家や家の目の前の墓地や屋上などでほとんどを過ごした。
その遊びとは、家の中の場合は、ほとんど絵を描いて過ごしていた。絵と物語を一緒にした、絵本を描くことは、私たちの一番の遊びの中心だった。
その他、小学校に上がると、ピアノも習い始めた。
最初の1年間はピアノが家に無かったので、紙鍵盤を二人で作成して、テーブルの上に置き、ホロビッツか、誰か有名なピアニストのレコードをガンガンにかけて、一人が紙鍵盤のピアノの前に頭を垂れて、いかにも陶酔しきっているふりをした「ピアニスト」になりきってもう一人は、そのピアノコンチェルトの音楽に合わせて、猛烈に指揮を振っていた。
コンチェルトの全楽章が終わると、もう二人は汗だくになってぐったりしていた。
また他の遊びとは、二人の20本の指を組み合わせて、色々なキャラクターを決め、名前も付けてその指を指人形のように動かしながら、それに連載の物語を作ることだ。
これは、毎晩寝る前の30分、押入を開拓して、作った2段ベットの布団の中に入ってからお互いが身を乗り出して、行う儀式だった。
他の遊びと言えば、二人がそれぞれ一人20役くらいを掛け持って、家で学校を経営していた。
その名も「世界コンクール学校」。
ライバル意識の高い、色々なキャラクターの持つ音楽学生たちが集まり、そのキャラクターによって名前も決められ、出席簿まで作られていた。先生も教科によって、様々なキャラクターの先生もいたし、しかもそれぞれの生徒の親まで決められていたので、もう1人が20人以上は確実に演技しなければならなかった。
実際はたったの2人しかいないはずだが、私たちの想像の世界では、50人以上が織りなす人間模様が、毎日現実と共に並行に生き続けていた。その授業も、狭いマンションの廊下で行われた。
廊下と言っても、キッチン、寝室、書斎、の3つの部屋の入り口のドアがある分だけの長さしかない、狭い廊下なので、私たちがそんな狭い廊下で、学校ごっこなど座布団を敷いて行っているだけで、誰も通れない状態で、キッチンへ行くにも、書斎へ行くにも、寝室へ物を取りに行くにも、母は私たちが邪魔で仕方なかったはずだ。
しかしそれでも、決して、母は
「こんな所で遊ぶのは止めなさい、書斎や寝室や外へ行って遊んだらいいじゃない?」
とは言わない。
それどころか私たちの想像の世界を徹底的に思いっきり夢見させてくれたのである。
私たちは、その狭い廊下が大変気に入っていた。人がどう思おうと、その狭い廊下は、私たちにとって、素晴らしい「舞台の壇上」だったのだ。
だから、その廊下では、月に何度かは、演劇も披露された。
いつだったか、ジャンコクトーの「声」と言う演劇を母と見に行った。
出演はたった一人で、ベットに横たわる熟女が夜中にかかってきた、男からの電話で長電話になり、泣いたり笑ったり、激怒したり、と人間の様々な情緒を現している、一人芝居である。
私たちはこの演劇をすっかり気に入ってしまい、家に帰ると早速、狭い廊下に演劇のセッティングを準備した。
ベットの代わりに、書斎から長いソファーを運び、電話台とスタンドが脇にセットされ、電話を置き、毛布を寝室から持ってきた。
もうこのセッティングだけで、人が通れないくらいに廊下はいっぱいになってしまった。それから、出演は希望者、と言うことで、私に決まり、私は、スリップ1枚になって、ソファーに横たわった。
端から見ると、全くの子供、と言うよりは寧ろ園児生、なので、色っぽさも全くないのだが、私はすっかり色っぽい熟女になりきって、スリップ姿でソファーのベットに気だるそうに寝ていた。
そして、廊下の電気が消され、姉のナレーターが始まった。
「今日は、ようこそ「声」の舞台においで下さいました。
どうぞ、ごゆっくりご覧下さいませ。」と言って、キッチンのドアがガラガラと開けられ、キッチンのダイニングテーブルに座っている母と父の姿があった。
この準備の間、キッチンに閉じ込められていたので、トイレや寝室、書斎にも行けなかったことになる。
それでも、父も母も文句も言わずに、待っていてくれたのだ。
私は、台本などは何もなかったので、最初の電話のベルを姉が口で鳴らすと、私は3回くらい鳴った後、気だるそうに身をソファーから乗りだし、スタンドを付けた。ようやく暗い廊下には、どういうセッティングになされているか、父も母も気が付いて、、まだ何も演技は始まっていないとうのに、もうばか笑いして、大受けしていた。私はその笑いも気にせずに、そして、「もしもし」と、出来る限りの色っぽい声を出してみた。
その瞬間にも母も父も大笑いしていた。あまりの背伸びした「色気声」が不似合いで、滑稽だったのだろう。
しかし、私はもうすっかりはまり込んでいた。
もう誰にも止められないほど、この熟女になりきっていたからだ。私は、最初は電話の相手の男であろう人と、穏やかに話していた。
しかし、だんだんと、声を荒げ、怒り狂ってきた!
もうソファーから完全に立ち上がり、毛布を蹴落とし、狭い廊下で手を振りかざして、怒鳴りまくっていた。
しまいに、よく母と父が夫婦喧嘩するときの、決まり文句なども勝手に出てきてしまい、何が何だか分からないが、台本が無いのでもう止められない状態になっていた。これを見てもう父も母もお腹をよじって笑っていた。
もうこのまま笑いすぎて息が止まってしまうのではないか、と思われるほどだった。しかししばらくすると、相手の男はどのように熟女をなだめたのか、女心をくすぐるうまい言葉でも囁いたのか、ようやく熟女のヒステリーもおさまってきて、今度はシクシク泣き出してきた。
次第にシクシクが今度は大声を上げて泣き出し始めたかと思うと、もう泣きわめいて叫んでいた。
まったくこの女は、
「女はこれだから、めんどくさいんだよな⁈」
と言う世の男達の声が聞こえてきそうな熟女モドキ。
そして、ようやくこの小さな熟女は泣き疲れたと見え、今度は笑い出してきた。
舞台の設定では、夜中だと言うのに、近所迷惑も考えずに、声高らかに笑っていた。女は世界一の幸せ者のように笑い続け、舞台は幕を閉じた。
「双子の秘密」第一部はここまでになります👩❤️💋👩
続きは、明日のブログにアップしますので、また遊びに来てくださいね🤲
今日の音楽は、55日間続いたロックダウン最後のおうちでライブ録音シリーズの
新曲「扉 PORTE」です🎤🎧
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