2020年5月12日火曜日

双子の秘密👩‍❤️‍💋‍👩パート②

皆さまこんにちわ🌏
今日は、パリは快晴☀️で気持ちが良いです

今日は、お約束の20年前のエッセイ

「双子の秘密」パート②

をお届け致します👩‍❤️‍💋‍👩


2歳10ヵ月のわたしたち双子と、母🤱


またその狭い廊下では、「スリッパ魚釣り」と言う遊びが週に1,2度は行われた。
この遊びは、私も双子の姉も結構気に入っている遊びの一つだった。
準備は至って簡単、
①スリッパが10足
② 一メートルほどの物差し
の二つだけあればそれでOKだ。
後は、狭い廊下スペースに、神経衰弱のトランプカードのように、一人が無造作に
ばらまく。
もう一人は目隠しをされて、合図と共に、1メートル物差し両手に持ち、
3分間にどれだけのスリッパを釣れるか?を競う、と言う遊びだ。

スリッパと言う物は、「本来、住人が家で使用し、足に履く物」と言う常識も、
私たちには全く通用せず、何の妨げにもならなかった。
その上、この遊びに関しても母から一度たりとも
「お客様用のきれいなスリッパが汚たり痛んだりするから、そんな風に投げたり、
乱暴な訳もわからない遊びに使う物ではありません」
と叱られた記憶はない。



  また、違う双子遊びには、こんなのもあった。
お客が来ると、居間兼書斎は、わたしたちにとっては、デパートに早変わりした。

家の中のあらゆる小物などに値段を付け、テーブルの上に並べられた。実際お客が来たときのために、普段から、手作りノートや、絵、絵本、ビーズなどで作ったキーホルダー、七宝焼き、焼き物クラブで作り溜めた、焼き物の食器、などが飾られていた。

そして親戚の者や、両親の知り合いなどの大人達が訪問してくると、すぐに
「一日限定開催デパート」へ勧誘し、無理矢理、強制的に客になって貰った。
最初は、大人達は、タダの子供の遊びだと思って、仕方ないな、ヤレヤレ的な心理で、
猫なで声?出して、親切にも
「何にしようかな、それじゃあ、これ下さい」、などと親切に、欲しくもないのに、
買い物ごっこにつき合おうとしてくれた。
しかし、私たちに「ごっこ」は無しだった。
買い物とは、何かをお金を出して買う事、を指すのだから、欲しいからには、
ちゃんとお金を払うまで、その一日開催にわかデパートだとしても、お客は解放させてもらえなかったのだ。

この双子の、特にわたしのしつこさに (姉はと言うと、悪いからもうやめようよ、と、消極的な態度が多かったが、)
最初は、仕方ないな、と言う大人の優しさから、猫なで声を出していたけれども、
本当のお金で、値札がついてる値段をキッチリ支払うまでは、厳しい顔で、ガンと立っている私たちが妙に怖くなったのか?
「一体どういう教育してるんだ⁈」
としまいには  苛立ち、怒るように、500円札(当時は札であった!)を私たちに投げ捨てて、プンプンしながら帰ってしまった人もいたくらいだ。

その後、私たちは、何で怒って行ってしまったのか?悲しくなり、困ってしまった。
もちろん、本当のお金で一旦は、支払って買い物ごっこに付き合ってくれたとしても、
後で、ちゃんと遊びが終了した普段の私たち、正気?に戻った時には、ちゃんと500円を返金し、品物はプレゼントするつもりだったのだ。

それなのに、本当に怒って帰ってしまった。
悲しかったし、傷ついた。
母が、「急いで500円札を返しに追いかけなさい、!」と言ったので、小さな傷ついた双子は、揃って猛烈にその知人を追いかけていって、500円札を返そうとした。
最初は、わたしたちに気付いて振り返り、
「要らないわよ、もう!」と、その500円札をどうしても受け取ろうとはしなかったが、仕舞いに、またまた私たちのしつこさに負けて、500円札を受け取ってくれた。



 また、居間兼書斎は「テーマパーク限定双子お化け屋敷にも早変わりした。
これまたお客の訪問の際に、お客が餌食となるので、我が家を訪問する際は、
ちょっとした、いやかなりな覚悟が必要かもしれない。

「お化け屋敷」と言っても、電気を消した真っ暗な居間に、スリッパ魚釣りによりスリッパは双子に既に回収されているため、客人は素足でゆっくりと入室してもらう。
そこで先ずは、足にヒンヤリと柔らかな感触を味わって頂くプランだ。
タネを明かすと、冷蔵庫から拝借した封を開けた「コンニャク」を数枚、入り口に置いておくだけだ。
また、次に客人に待つ運命は、ヒンヤリした濡れタオルが顔目がけて飛んでくるだろう。

そして客人は悲鳴を上げ、さらに少し一歩進むと、カセットが突然鳴りだし、人の悲鳴声を聞かされる。
もちろん、この録音は事前に二人によって事前に準備されている。
そして、そのカセットから、ピアノの音もポロロン、ポロロン、と聞こえてくるではないか?
悲しげなメロディー、、背筋がゾクゾクさせたその瞬間、足元に寝ている柔らかな猫を、客人は踏んでしまい、びっくりした猫は、客人に飛びつき、噛みつき、爪を立てる。

そして客人の背後から、双子のうちの一人がくすぐったい腰のツボを激しく揉む。
笑いに堪えられない、参り切った客人は、急いでそのお化け屋敷部屋から降参し逃げていき、小さな双子により大人を負かすと言う涙と笑い、痛みと驚きに怒り、と言った、
人の五感を短時間に使える「お化け屋敷」なのか、ただの「悪ガキによるイタズラ」
なのか、よく分からないシナリオを双子は考えていた。

しかし、どうしてだろうか?このシナリオが最後までうまく行った試しがないのだ?
客が入室してコンニャクを踏んだ辺りで、電気を付けてしまうか、
「何やってるの⁈ ったく!」
とお叱りか、バカにしたような?笑いで、興奮しワクワクした小さな小悪魔双子たちは、あっさりと「現実」に引き戻されてしまうだ。
下らなく見えるんこの「お化カ部屋」に、二人はかなり時間をかけて準備していることもあり、計画通りに行かない結末に、私たちはいつも一気に不機嫌になり、不満足に終わるのだが、喉元過ぎれば、、なのかまた懲りずに次の客人の来訪を心待ちにし、新たなプランを無言テレパシーにより会議が日々始まる。

但し、客人自身の相当な協力の必要な「お化け屋敷」だったため、最後まで成功した客人は、たった一人「実母」だけでした。


 また、私たちは本当に「変な遊び」を見つける名人なのか、ある休みの日に、
普通に生活するのは飽きた、と言って、マンションの「狭いベランダ」に住まいを移す、
と、両親に宣言し、双子は部屋出した。
ふたりでベランダにゴザをひいて、学校の勉強道具なども、一切ベランダに移した。
そうやって数日間をベランダで過ごした。

寝るときだけは、部屋に戻り、押入を改造した2段ベットだった。
しかし、昼間をほとんどベランダで過ごしたのだ。
もちろん、ご飯もベランダの小さなゴザの敷物の上で、二人でピクニックのように
仲良く、喧嘩しながら食べた。
宿題やお絵描き、など全てベランダでやった。

本当に狭くて、小さなベランダだったのだが、ベランダ住まいが数日経った頃、母が大切にしていたわたしたち生まれた時から育てていた、「ゴムの木」の葉っぱを、わたしが誤って、折ってしまったのだ。
悲しむ母に、怒られたわたしは、反省のため、ベランダに閉じ込められ、鍵をかけられて部屋の中に入れなかった事があった。
部屋に見つけたボンドで、「ゴムの葉」大きな自分の顔よりも大きな葉っぱだったが、茎に付けようと苦戦していた。
わたしたちは、なんだかベランダ住まいも飽きてきて、早く部屋の中に入れてもらいたかったのだが、母もあまのじゃくな私の性格を知っていて、
「ベランダに住居移したんでしょう?」ならばそのままベランダで過ごしたらいいじゃない?と部屋に入れてくれずに数時間、放っておかれた時には、本当に悲しくて焦り、
ゴムの葉っぱに
「お願いだから、いい子だから、強力接着剤で、茎にまたくっついて!」と願うようにお祈りしていた事を覚えている。



 また、野外での遊びも数多くある。
まず、私たちの住んでいたのは、東京の青山と言う都会だったこともあって、あまり遊び場は無かった。
しかし幸いにも私たちの住んでいた小さなマンションの目の前には、広い「墓地」があった。
私たちはいつもその「墓地」もしくはマンションの「屋上」を遊び場にしていた。
屋上に上がった際には、私たちは非常に「危険な秘密の遊び」を実行していた。
もちろん親には「極秘の遊び」だった。
その遊び内容を告白したのは、それから30年以上先の、母が地球を旅発つ数ヶ月前だったか、、。

その「極秘の遊び」とは、屋上に立ち入り禁止の水道タンクの置いてある上がる、
はしごをさらに登り、タンクの上に登って東京タワーを眺めることである。

また、柵を乗り越えて、柵の全く無い 幅が15センチほどしか全長3メートルほどの
を歩き! 向こう側に渡る、と言う何とも恐ろしい一つ間違えたら4階のマンションから真っ逆さまに落ちたら、怪我だけでは済まず、命の保障さえない「恐ろしい遊び」だ。

わたしたち双子は幸い小さかったので、この15センチ幅の狭い通路を渡ることに、いつも成功していたが、だから、今のわたしたちが実在しているわけだ。
しかし、もし身体が大きな大人が、このバカげた遊びを挑戦したならば、かなりな率で、失敗して、4階、屋上からならば5階の高さはあるマンションの屋上から真っ逆様に落ちて、大怪我、もしくは命は無かったことだろう。
このような命を賭けた冒険が、私たちの心を掻き乱せるワクワクする遊びだったのだ。
本気で、まあ、落ちても鳥みたいに飛べばいいんだから、と怖さは無かったからだ。

もちろん、失敗して落ちたら、命を失うことになることも、子供ながらに十分承知していたのだが、その「命」についての「秘密」も知りたかったこともあった。
「人の命」について、どうしても分からないことがあり、屋上のでの「命の冒険」はその度に、その本当の命の大切さ、の何かを発見出来る事を期待して、毎回飽きもせずに続けていたようだ。 


また墓地で遊んでいた時は、私たちの特別な遊び方があった。
まず、一番立派な広い墓石の建てられている場所を選び、そこを私たちの住まいとする事にし、そこにある小さなテーブルの上で野外授業が始まる。

まず、墓石に掘られている難しい漢字の文字を先を水で濡らした、細長い枝を筆にして、その文字の上をなぞり、漢字の練習をした。

その次は、木登り、木の葉を集めては食事の用意もした。また近くに50センチの深さの落とし穴も掘ってはお互いにその穴にはまる遊びもお気に入りの遊びだった。
墓地の真ん中の広い道を通り抜けて、長い石の階段を降りていくと、下には公園があった。
またその公園の側には、「のぞみの家」と言う名札のかかった、子供の身体障害者用の宿舎もあった。
いつも車椅子に乗せられた子供達が、宿舎から出てきているのを見ては、人はなぜ生まれ、過酷な人生を生きるのか?
言う素朴な疑問がいつも浮かんできていた。

また「望みの家」と言う施設のネーミングが、なぜかヤケに矛盾を感じて、子どもながらに、あの施設の前に行くのは、屋上遊びよりも、不思議に胸騒ぎがしていた。



 いつだったか、屋上の遊びの他にも「危険な冒険の遊び」を発見した。
まあ、大体こう言う無謀な遊びを仕掛けるのは、双子の姉ではなく、わたしだったのだが。
そのこれから話す「危険な冒険遊び」を一年ほど続けて楽しんでいたが、とうとう失敗しこの遊びが私たちの遊びリストから削除された事件が起こった。

その代償はわたしたちにとって忘れ難い経験だった。
「わたしたちが貯めてきた、全お年玉を一瞬にして失う」と言う大事件だった。
その「禁断の双子遊び」とは、このような事だ。

私たちのマンションの隣りに建てられた経済的に豊かと見られる
「大きなお洒落な一軒家」があった。
その一軒家の外に面した庭には、大粒の石が敷き詰めてあり、オブジェとしては、
大きな高さ1メートルはあろうと思われる「大きな顔のみの石の彫刻」が建てられいた。

しかもその「あくび大顔の彫刻」は、私たちのマンションの方角を向いていたので、私たちはいつも学校の帰り道、塾や習い事の帰り道には毎日数回その前を通らないとならなかった。

「あくびの顔」が、置いてある石庭と、マンションのガレージの段差は1メートルもなかったので、簡単に子供達が上り下り出来るようになっていた。
しかし、私たちはその石庭の上には決して上らなかった。
何故か、登ったら、そのあくびの口の中に、小さなわたしちちの体ごと吸い込まれ、
肉体だけでなく、大切な「魂」まで呑まれてしまいそうに感じた。

その代わり、その石庭のあくびの顔のの口の中に、石を投げて命中させる、と言う奇妙な遊びを思いつき始めた。
一年くらいたっただろうかある夕暮れ時に、わたしが投げた石が、あくびの口を外れて、直ぐそばにあった大きな1枚ガラスの大きな窓の下の方に投げた石が当たってしまったのだ。

と言っても、よく見ないと分からないような、小さな小さなヒビが入った程度だった。
ゲームでは最低点の場所。
しかし、私たちはどうしてもそのまま見て見ぬふりをして放っておくことが出来ずに、
母に告白し、打ち明けた。
母は、隣の人の家に行って事情を説明し、謝りに直接自分たちだけで行くように勧めた。

わたしたちは、謝りに行くのが本当に怖くて、その日はソワソワして何も喉に通らなかった。
わたしが石を投げたのだ。だからわたしが勇気を振り絞って、隣の家のブザーを押した。
そして、イヤホーンがら、
「どなた様ですか?」と言うよそ行きの声が聞こえた。
わたしは、一瞬唾を飲み込み、ドアが開くと、一気に用意していた言葉を吐き出し、思い切って事情を説明した。

家の玄関から出てきた家主と思われるご婦人を見上げた。
お洒落なシルクの服の生地が風にサラリとなびいた。
彼女は、厳しそうな目で小さくなっている私たちを見下げると、先のよそ行きの声とは打って変わって非常に厳しい低い声に変わり、
「何というバカげた遊びをしていたんだ!!親の教育がなっていないからだ!」
と声を荒げ、一緒に小さな5ミリくらいのヒビ?が入ったガラス窓を確認に見に行った。

「この1枚ガラスを交換しますから、弁償してもらいますから、親を直ぐに連れてきなさい!!」と怒鳴られた。
5ミリも満たない小さなヒビのために、縦2メートル、横3メートル近くもあろうと思われる1枚ガラスを弁償するということは、相当な金額を支払わなければならない、と言うことだった。
そんな訳で私たちの何年分も溜めて来たお年玉の郵便貯金通帳は、1日にしてスッカラカンになってしまった。

 こんな風に、「命」や「お金」をかけた遊びで相当痛い目にも遭ったりしたが、
しかし、わたしたちはどんな環境や物、でも直ぐに遊び道具にしてしまうことが、出来た。
そんな性格もあり、どんな時にも心から思いっきり楽しんで遊ぶことが出来たし、いつも大きな大切な事を学んでいたように思う。

また、このように自由に遊ぶ事をいつも大らかに見守り続けてくれた母に、心からの感謝をふたりから捧げたい。もちろんいつも不在ではあったが、父にも感謝している・・・。

「双子の秘密」2000年5月著 

エッセイはここまでだ。
最後まで読んで下さりありがとうございます😊

今日の音楽は、2013年夏に双子ライブをした時のビデオをお届けします👩‍❤️‍💋‍👩

母が1990 年に書いていた「ゆめ」と言う詩にメロディをつけました🌙




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