2020年5月26日火曜日

5 ヵ月ぶりの田舎

こんにちわ🌏
ブログにいつも訪問下さっている方々ありがとうございます😊
わたしが直接知らない方々でも、また遠くて中々会えない友人たちにもブログを読んで貰えてる事で、心が繋がっているようで、ロックダウン中も寂しさを覚えずに、
乗り越える事ができました🌈
皆さま、心からありがとうございます😊

先週末からパリから60キロほど離れた田舎に滞在していました🌳

考えてみたら、昨年12月から、ずっとパリにいました。交通ストライキから間髪を入れずにCOVID-19 のパンデミックに入り、ずっとパリから出られないでいましたから、まるでや地球の裏側の遠い外国に来たかのような新鮮さがありました😃

Wifiも無く、パソコンも無い、壮大な森や川、木々たちなどの自然の中で、野鳥や犬や猫ちゃんたち、新鮮な野菜や果物にたくさんのエネルギーを貰ってきました🌈


パリに戻り、新たにスタートした会社の新企画の仕込みも始まってきましたが、まだもう少し内観する必要がありそう🐢

今日は久々にまた20代の頃に書いたエッセイ
(中学生1年生から1年間通った、鴨川の近くの柳池中学でのマラソン大会での
自分の忘れられないエピソード)を、この先週末に充電された素朴な田舎の風景写真を
ご紹介しながら、ご紹介してゆきたいと思います。

屈辱のマラソン大会」




  今日は、わたしの最初に通った中学の1年生の2学期には、京都の鴨川沿いを20キロ近く走る、と言う長距離マラソン大会が行われるのが恒例になっていた。
わたしは双子の姉と共に、このマラソン大会に備えて、数ヶ月前から早朝ジョギングを始めて、密かに準備を始めていた。

何故なら?
「この大会では、絶対に優勝するつもりでいたからだ。」
わたしたちは、身体は人一倍小さかったのだが、大変な負けず嫌いで、どんなことでも一番にならないと気が済まない、と言う頑固な精神の持ち主だった。

たかだか学校で行われる、文化祭にしろ、カルタ大会にしろ、数ヶ月前からは、特訓を始めるのが、わたしたち双子の間では、「暗黙のルール」になっていた。



1学年は4クラスあり、160人近くの生徒が早朝の鴨川の集合場所に集合した。
多くの生徒たちは「何がマラソンだ〜、、!」と言いたげに、思春期特有の眠そうな目を擦りながら、義務的にダラダラと集っていたようだ。

しかしわたしたちは、昨日の夜からこの日の大会を思ってワクワクしながら朝を迎えたので、
わたしたちは、もうすでに軽く足をあげながら、準備体操をしていた。

 色々な注意事項などを、体育の先生がメガホンを使って話していたが、そんな話はもはや耳には入っていなかった。
早くスタートのピストルが鳴らないか、と今か今かと、せっかちなわたしは、心の中で思った。

 ようやく、待ちに待った、スタートの瞬間がやってきた。
いよいよ早朝の心地よい鴨川のほとりに大きなスタートを知らせる「銃声」が鳴り響いた。


わたしは、無我夢中で走りだした。
あまり勢い良くスタートしたので、すぐにみんなの先頭に立って走っていた。
しばらく、わたしは心地よく走っていた。

するとすぐ隣りに猛烈に走る、誰かを感じた。
はて?
「一体そんなに勢い良くわたしを抜かそうと、頑張って走っている人は誰だろう?」

と横をチラッと見ると、何とそれは、双子の姉ではないか!

わたしは少々安心したのと同時に、強いライバル意識が出てきた。
いつも、そうなのだ。
姉の頑張る姿を嬉しく思うと同時に、必ずライバル意識が出てきていたようだ。

 双子の姉も、チラリと私を見て、同じような事を考えていたようだ。
わたしが少し前を走れば、姉がすぐに、抜かそうと少し、走る足を早めた。
すると、わたしも抜かそうと足を早めた。
遠くから見たら、きっと小さなウサギの争いに見えたかもしれない。


そうこうしているうちに、今まではまっすぐだった、石砂利の鴨川沿いが、前方にかなりの段差のある下り坂があった。
しかし、わたしは姉との小さな競争のために、その段差があることには全く気が付いていなかった。

その段差が近づいた時にはもうすでに遅かった。
わたしは、その段差に見事に派手につまずき、小鳥のように身軽なわたしは、一瞬空に飛んだ様に錯覚した!
やっと飛べたんだ!と心で喜びに満ち溢れていたのだが、
現実はと言えば、身軽な体だと言えど、重力が邪魔をして、崖下に転がり落ちてしまっただけだった。

出発から、たったの5分とは経ってはいない頃だろうか?

しかし、私の血だらけの素足の両膝は、荒い石砂利によってひどい状態になっていた。
起きあがろうにも、しびれているのか、激痛のために立ち上がる事が出来なかった。
横には双子の姉はいなかった。

もうとっくに先へ行ってしまったようだ。
わたしは悔し涙も出ないほどショックだったが、痛みの涙が、不思議に出なかったのはなぜだろうか?

保健の先生が、起き上がれないわたしの事をどこから見ていたのか不思議だが、見つけて
抱き起こしてくれた。

しかし、わたしはその親切な手を振りほどいて、虚しく抵抗した。
わたしの血だらけの両膝を見ると、すぐに消毒して薬をつけて、応急処置をしなければ、膿んでしまい、大変な事になるから、、と今すぐにマラソン大会の棄権を勧めてきた。



しかし、頑固なわたしは、
「棄権なんて冗談じゃない!!」と益々、優しくしかし厳しく声を掛けてくる保健の先生がうっとうしくてたまらなかった。

そんな先生の助言も無視してわたしは、「ゴールまで走ります。」と唸るように小さな声で答えた。

そうは言っても、本当に足が動かなかった。
悔しかった。
ほんの先ほどまでは、あんなに軽やかに、リスのように飛び跳ねていたではないか?

それが今は、もはや自分の足が、自分の身体ではないかのように、邪魔なものに思えた。
保健の先生は、この頑固なしつこい生徒にはもう、諦めたのか、何も言わなくなった。

わたしは、両足を引きずりながら、一歩一歩と前に進んでいった。
まるで子亀のように、、。
その内に、不思議に、痛みを感じなくなってきたようだった。
それは錯覚で、その時は極度の緊張状態だったので、痛みを一瞬忘れさせてくれたのであろう。
わたしの膝は、両足はもはや麻痺してしまったのかもしれず、ただ何か重い棒を2本身体に付けて歩いているような感覚のまま、ひたすら走っていった。
走ると言うよりは、引きずりながら歩いていた。

もう周りの競争仲間などはどうでも良かった。
ただ無我夢中に前に一歩、一歩進んでいたかったからだ。


 このマラソン大会では、ある規則があったようだ。
それは、一番最後の走者は、「ビリのタスキ」というものを、肩から下げて走らないとならないと言う決まりだ。
確か、メガホンで何やら体育の先生が今朝説明していたような気もする。

しかし、わたしには地球がひっくり返っても無縁だ、と信じていたので、あまり詳しく聞いていなかった。
 ところが、私が、ようやく折り返し地点の印のある大木の所に来た時だった。

隣りに誰か近づいてくるではないか?
先生かな?
何だかやけに大柄な身体が近づいてくるような気配がする、と思い、またもや
「チラリ」と横を見た。

それは、それは、紛れもなく、今にもその無縁なはずの「タスキ」を自分の身体から外して、わたしに優しく、労わりながら、掛けてくれようとしているのは、
かなり丸々とした女子生徒だった。

彼女は、体育のクラスは大の不得意科目で、陸上競技では大抵最後に残ってしまう
生徒の一人だった。
 「まさか!」わたしは今、たった今、「ビリのタスキ!」を掛けられた「ビリっけつ」になったのだ。

わたしには、もうその彼女を追い抜かす事は力は出なかった。
完全なる降参、負けを受け入れなければなならなかった。

 折り返し地点の大木の所には担任の先生が当番で立っていた。
青白い顔をして、血だらけの両膝を引きずっているわたしを見て、
「なぜこんなに怪我をしているのに、棄権しないんだ!」
と大声をあげ、
「もう半分走ったのだから、これから車で集合場所まで帰ろう」
と、やはり優しく言いながらも殆ど怒っていた。

「わたしは、半分までこんな足でも引きずって来られたのならば、
あと半分も歩けるはずだ〜」
東京オリンピックの陸上競技の選抜選手権に出場したほどの、わたしの頑固な
明治生まれの祖母の血を引き継いだのか、益々頑固女の血潮が騒ぎ、首を横に振り続け、後ろに先生の存在を感じながらも、また引きずりながら歩き続けた。

 先生は、もうわたしがビリなのだから、とターンの大木の場所の見張り当番も終え、
わたしの直ぐ後ろを歩きながら、見守ってくれていた。

わたしは只一人で走り、いや最後まで歩きたかっただけだった。
先生と一緒に歩く、おぶってもらう?なんて、何だか補助付きみたいでいやだった。

しかし、先生は心配だったのだろう。
だが、わたしの頑なな態度を見て、もうここまで意地を張る小さな女の子を、どうしようもできなく、諦めていたのだろう。


 実際、この「ビリタスキ」を掛けながらの、ゴールまでの道は、とてつもなく長く感じられた。
もうやめて、本当に先生の言うように車でゴールまで行って、早く処置してもらう方が良いかもしれない、と理性が頭をよぎった。
そうすれば、たったの3分で、もうこの地獄のような現実とも終わりで、救急処置を施し、家まで送ってもらえるかもしれない。

家に帰れば、母が心配して優しく看病してくれるだろう。
いつも二人だけになるとイジメてくる姉も、流石に優しくしてくれるだろう。

しかし、わたしは、天邪鬼か、素直でないのか、「安易な道が嫌い」だった。
と言うか、元来無茶をする性格なのだ。

 時間が止まってしまったかのように感じた。
ひたすら、ひたすら足を引きずり続けた。
あと一歩、一歩。
遠くを見ると、あまりの長さに気が遠くなり、倒れてしまいそうだから
なるべく自分じゃないみたいな足を見ながら手で持ち上げながら
一歩一歩運び続けた。

鴨川に集まるカモメの泣き声が、やけに大きく耳に聞こえてきた。
だんだんと、遠くにぼんやりと人の集団が見えてきた。

ふと気付くと、一人で歩いているつもりが、後ろにいた先生が、
「もうすぐゴールだからね!」と優しく声援を送ってくれた。

そのうちに、今度は声援が何だか大きくなってきたようだった。
よく聞いてみると、「頑張れ!」と言っているようだった。

実際、のろのろとわたしが来るのを、どのくらい待っていてくれたのであろう。
その頃は携帯電話も無かったので、あとどのくらいでビリの人が来る、と分かる事も出来ないので、ただひたすらテープ係りの人も待っていたのだろう。


わたしのために、しっかりとテープは張られていた。
わたしがゴールに着いた途端に、もの凄い歓声と拍手が聞こえた。
真っ先に双子の姉が飛んできて、わたしを置いて先に行ってしまったことを申し訳なさそうに詫びていた。

競争なんだから、先に走って当たり前じゃない、と答えたが、
その姉の気持ちがなんだか分からないが、嬉しかった。
また、喧嘩しても、やっぱり最後にはわたしから謝ってしまう要素は、
こんなところから生まれる、のかもしれない。

わたしは「ビリタスキ」を掛けてゴールするのは、どんなにか屈辱の気持ちだろうか?
と痛みの中で、足を引きずりながら、想像していた。

しかし、わたしは「最高の声援と拍手」をもらって、ゴールする事が出来た。
だれよりも、最高の幸せ者となったのだ。

急に両膝の激しい痛みがまた襲ってきた。
保健の先生が急いで、オキシドールで怪我をして、すでに腫れ始めている両膝を消毒しながら、
「悪化しても知らないよ」と意地悪げに言っていたが、顔を見るとにこやかに笑っていた。

何だか、わたしはビリだったと言うのに、まるで「優勝」したような嬉しさがこみあげてきたようだった。なぜだか分からないが・・・。



 わたしは、このマラソン大会の時の事を、なぜか数十年経った今になっても鮮明に覚えているのだ。
たとえどんな絶望的な状態になっても、最後まで絶対に諦めない強靱な精神、とも言うべきか、そんな人生の大切な何かを学び取った、わたしにとっての貴重な体験だったからだ。
 ちなみに、わたしは今でも良く転びそうになる癖がある。
20代のうちは、よく膝を怪我したものだ。
まるで子供のように。
しかし、最近はもう膝を痛めるのだけは、懲りごりなので、ようやく足元を慎重に歩く、癖もついてきたようだ。

〜了〜

エッセイはここまでです🌈

皆さま読んで下さり、ありがとうございます🤲




 
 

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