2020年5月10日日曜日

9歳の初めての入院💉

こんばんわ🌙🌏
尺八シンガー クレアシオン桂のブログをいつも読んでくださりありがとうございます🤲
段階的なロックダウン解除まで、あと2日に迫りましたが、
せっかく内観的に始めたブログですので、このまま続けていくいきたいと思っておりますので、皆さま時々遊びに来て下さいね😅

部屋の窓から見る夕焼けも、毎日違って楽しい時間に😚

今日も前回に引き続き、20年前に書き溜めていたエッセイから、セレクトして
ご紹介したいと思います‼️

初めての入院」


と言うタイトルです💉 

私は9歳のときに西洋フルートを習い始めました。
小学校で習い始めるリコーダーの時間がとても楽しみで、
中休み外に遊びにもいかず、教室に残り、一生懸命練習してたのを思い出します🎹

6歳から、双子の姉と、ピアノを習っていたのですが、家にはアップライトピアノが1台しかなかったので、いつも双子の姉が、トイレの休憩に席を外した時しか、練習できない
事に、苛立ちともどかしさを覚えていたので、

親にお願いをして、自分だけの持ち運び出来る楽器を習いたくなったのです🎻
バイオリンに憧れましたが、高そうなのと、9歳からでは遅いだろう、と感じて
フルートを選びました。

ところが‼️ フルートを始めて半年が経ち、小柄でまるで幼稚園生のような
わたしは、重い肺炎にかかってしまいました🤣

今回は、そんな人生初体験だった入院生活を振り返り、書いたエッセイです🙆‍♀️
編集カット無しで、そのままお届けします😉



わたしは、今真っ暗な静まり返った集団病室で、手元の小さな豆懐中電気のわずかな明かりの下で、双子の姉に手紙と、小さな小物入れを左手だけで作っていた。

なぜなら右手の甲には、しっかりと太い点滴の針が刺さっており、その太い針の先には、透明のパイプが通っており、さらにその先には、大きな1リットルの黄色い液体の入った瓶がベットの脇に吊されていたために、自由に右手を使うことが出来なかったからだ。

それでもわたしはこの夜中の作業が唯一の楽しみだったのだ。
しかも明日の夕方には、母が見舞いに来てくれることになっているので、その時に間に合わすために、今夜なべをしている、というわけだ。

そもそもわたしはなぜ、このように入院することになったのかを説明しておくと、わたしは「重度の肺炎」、ということだった。

しかしわたしは、実際この病名が、果たして本当に自分自身に起きている病気なのか、信じられなかったのだ。
なぜならわたしは全く苦しくもなく、全く元気な状態で、何上にこのような病院に、一日中右手と左手に交互に点滴を受けながら、お風呂にも入れずに寝ていなければならないのか、全く見当もつかなかったからだ。

周りを見回すと子供たちばかりのようだ。しかし、隣の子供たちと話すことも、あまりおもしろいとも思えなかったし、2週間も学校を休めば、授業に遅れを取ることが一番気になって仕方なかったので、毎日昼間は教科書ばかり開いていたので、本を読むと、疲れるので読み過ぎないように、といつも看護婦に注意された。


わたしは、病院に対して一つの「秘密」を持っていた。
わたしはこの「秘密」を行うことによって、無意識にも医者というものを観察し、確かめてみたいことがあったのかもしれない。

この秘密はとうとう最後の退院の日まで続けることになってしまった。
そして最後には、この「秘密」を行ったのにもかかわらず、わたしは退院できたことに、密かなるわたしの勝利を感じることができた。

一体のこの「秘密」とは何だったのか?と言えば、それは大したことのない、寧ろ恥ずかしく、小さなことと、わたしは思っていたのだが、実は根本的な大きな決断だったのかもしれない。

 その「秘密」とは、わたしは、入院した最初の日から、「薬」を飲まなかった。
それは、西洋医学を信じていない、だとか、薬を信じていない、と言う子供ながらの徹底したこだわり、でもなかった。
わたしはまだ小学校4年生だった。

しかし身体の大きさは幼稚園性並だったので、従って、喉のサイズも小さかった。

大きな粒の薬が小さなオチョコほどの病院指定のコップの水だけでは、一度で飲み込めなかった、と言うくだらない理由からだった。

つまり、飲まなかったのではなく、飲めなかったのだ。

しかし一番最初に、看護婦が、ワゴンを病室に運んできて、
「お薬の時間です」と言って、
一人一人のベットにそれぞれの薬を持っていき、お決まりのように薬を配り、
わたしが、その小さなオチョコのようなコップに8分目ほどに入った水だけでは、
5種類くらいもあるたくさんの粉薬や、カプセルやら、大きな粒の薬など、5,6種類もの薬を一度では飲み込めずに、
「もう一杯下さい、、、」と何度も看護婦に頼み、焦れば焦るほど飲み込めずに、
また、「もう一杯、下さい、、」としまいに5回目くらいになると、看護婦は呆れたように不機嫌になり、もう行ってしまったのだ。

わたしは、グチョグチョに粉もカプセルの中身も口の中で溶けだし、他の薬と混ざり始め、苦みに耐えられなくなり、吐き気をもよおし始めたので、悪いとは思いつつも、
わたしはトイレに駆け込み、全部吐き出してしまった。

わたしは、うがいをして、スッキリとすると、何気ない顔をして病室に戻った。
この薬の時間は1日に3回もあった。
2回目くらいからは、今度こそ一度で飲めたいいのに、と覚悟をして臨んだ。しかし、1度目の失敗が足を引っ張り、今度も2杯目を頼むと、今度こそ看護婦は、
「もうこれで終わりですよ!」
と言って、またもや忙しそうに行ってしまった。

わたしはやはり口の中はグチョグチョだったが、
思わず、ニコッと笑って大きく頷き、「もうOK!」という素振りをした。

それからというもの、わたしは一杯目で、飲み込んだふりをして、看護婦に大きく頷くことにしてしまった。
そしてその後必ず、吐き出していた。

とうとうわたしは入院中の2週間の間「薬」を飲むことはできなかった。



しかしおもしろいことに、2日おきくらいに、医者が看護婦と共に、診断に来たのだが、わたしを診断したあと、看護婦に何の薬を飲ませているかを質問し、難しい専門用語言うと、医者はすました顔で、
「うん、薬が効いているようだな。」と言って、
わたしのカルテに何かを書き込んでいた。

わたしは、笑いをこらえるのに必死に真面目な顔して、病人のように弱々しく医者の質問に答えた。
医者も看護婦も、真面目な顔を崩すことなく、しっかりと仕事をしていた。

 わたしはその内に病院生活をエンジョイすることにした。
 そして幸いにも、1週間もの間続けていた、トイレに行く時も外せなかった点滴も、
大分良くなっているので、外してもいいということになった。

右手と左手に交互に刺していた、点滴の跡は真っ黒になっていて、手全体が痛くなってしまったほどだ。肺炎の自覚は全くないが、この点滴の針を刺している手が一番痛かった。

なぜ、このような重い肺炎になったのかは、病院の説明によると、まだ小さな身体なのにフルートを吹いているのが原因だ、ということだった。
確かにわたしは小さいながらも小学校の4年生に入ると、縦笛の好きだったこともあり、フルートを始めた。


私がフルートを始めた理由は至って単純なものだった。
私と双子の姉は、6歳からピアノ習い始めたのだが、姉の方が真面目に練習していたこともあって、進みが早かった。

始めはそんなに違いはなかったのだが、小学校3年にもなると、姉とわたしは、練習している曲に大きな差が出始めたのだ。

しかしピアノが同じ年の姉から、どんどんと差を付けられても、あまり競争心などは湧かなかった。
大体、小学校2年の時に祖母からプレゼントされたアップライトのピアノを、学校から帰ってきたら独り占めするのは姉だったので、わたしは練習する時間が姉の半分以下しか残されていなかったのだ。
わたしはもう姉と争うのをさっさとあきらめて、何か姉のやっていない新しい事やりたい、と母に頼んでみた。

姉がピアノを弾いていても、その間に誰にも取られない楽器を。だからその時のわたしには何でも良かった、と言ってもいいかもしれない。
わたしはその頃すでに、自己流で絵を描くのが趣味だった。
姉がピアノをいつものように弾き出すと、わたしのアトリエにさっさと潜り込んだ。
わたしのアトリエは押入の中を改造した小さな絵を描く専用の部屋だった。

わたしは身体が小さかったので、その部屋に何時間籠もっていても、一向に平気であり、寧ろ楽しかった。
わたしは、母の集めていた、ルーブル美術館全集を第一巻から順に、模写し続けたりした。

押入の中は昼間でも真っ暗だったので、小さな専用のスタンドも用意してくれた。
わたしはこの部屋が、大のお気に入りの部屋だった。
わたしが一番自分らしくいられる場所。
ホントは鍵まで付けたかったくらい、、。

ピアノは止めたくなかったけれど、その頃学校の音楽の授業で始まった、リコーダーの時間はわたしの大好きな時間だった。

そんな理由もあってフルートを始めることになった。


しかし、実際に初めてワクワクする心を抑えながら、渋谷のヤマハの音楽教室に行った時には、まず身体が小さいこともあるので、フルートをかまえても指が届かないだろうし、しばらく身体が大きくなるまでは3つに分かれるフルートの楽器の歌口部分の頭部管の練習しかさせてくれなかっのだ。

わたしはがっかりしてしまった、、
すぐにも、あの銀色の長いキラキラ光る美しいフルートの音を出せるのかとばかり、
楽しみにしていたので、頭部管だけしか触らせてもらえないことは、ひどく悲しみ、
落ち込んでしまった。
しかし、悔しかったので、家に帰ってから、わたしは教則本を見ながら、フルートを組み立ててみた。
そして実際ホントに指が届かなかったのだが、必死に延ばして、指と腕がちぎれんばかりに延ばして、運指表に基づいて、実際にフルートをかまえてみた。

そして小さな身体が、だんだんとしびれてきたのだが、それでも頑張って吹き続けた。
美しい音には程遠く、「ため息」のような、風のような雑音だった。

それでも5分ほど吹き続けていたが、次第に酸欠?なのか目眩がしてきて、床に倒れていた。
子供だったこともあり、自己流で吹いたので、呼吸法がきちんとしていなかったようだ。おそらく肺で、ラジオ体操の要領で深呼吸をして吹いていたので、気がつかないうちに、酸欠になっていたのであろう。
そんなほとんど、練習とは言えない意地の練習を、半年も続けていた頃、
わたしは、「重い肺炎」らしき?病になり、入院することになったのです。
周りの先生や大人たちは、母を除き、
「こんな小さな身体で、フルートを習わせるとは、残酷だ!」
と心配してくれ、医者たちも「このように小さな身体では、気管支も弱い事だし、やめたほうがいいですな、」と言った。
しかし、わたしとしてはフルートをやめるも何も、まだソ、ラ、シ、ド、のたった4つの音しか習っていない状態で、フルートをやめる?なんて、冗談じゃない、と内心怒っていた。
わたしは退院したら、その日から吹いてやる、と鼻息を荒くした。

 しかし、やはりどうあがいても、肺炎の原因はフルートとしか考えられなかったようだ。わたしは、この唯の棒に穴があいただけとも見える、「フルート」にやられてしまった事がなんだか悔しかった。

 元々、病院が大嫌い、なわたしだったし、しかも初めての入院で、最初の日から、
血液検査や、点滴のために太い針ばかり、腕や手に刺されるし、大好きな風呂にさえ入れなかったので、身体を看護婦が拭きに来てくれるのも、正直言ってイヤな時間だった。

そんな訳で、病院での唯一の楽しみと言えば、
夜中にちょっとした手仕事(と言っても小物入れなどを手縫いで縫うなどのこと)をしたり、手紙を書いたりと、
冒頭に書いたような事をすることだった。

わたしは毎晩、夜勤の看護婦に見付からないように、上手に手仕事を行っていた。
大抵は、足音がすると、わたしは小さな懐中電灯を消し、寝息を立てて寝たふりをしたので、見付からずにすんだ。
しかし、計3回ほど、見付かって怒られた。
その度に、「もういい子に寝ます」、と看護婦を安心させて、
彼女が行ってしまって足音が聞こえなくなると、またそっと懐中電灯を付けて、続きを淡々と行った。

 しかし、考えてみると、薬は一つも飲まなかったし、夜中は手仕事のために睡眠不足、一体何のための入院か分かりゃしない。
しかしわたしは2週間後に、すっかり完治した、と医者にはっきりと言われて、元気良く退院した。
きっとやりたいことを意外にワクワクしながらやっていたので、自然に免疫力がアップしたのかも知れない。

 初めてのこの入院以後、わたしは幸い一度も入院とは縁がない。このまま入院とは縁のない人生であることを願っている。        



  

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