2020年5月11日月曜日

双子の秘密👩‍❤️‍💋‍👩

おはようございます☀🌏
尺八シンガー クレアシオン桂のブログをいつも読んで下さりありがとうございます😊
今日も、20年前に書き溜めていたエッセイから、編集カット無しでご紹介したいと思います😙
が⁉️今回は長いエッセイなので、二回に分けて、お届けしたいと思います🙆‍♀️
自分で読み返しても、笑いますのでご覚悟下さい😅

「双子の秘密」



私は、双子の姉とたった2人だけの姉妹である。
私たちは中学3年生まで一緒に暮らしていた。
しかしそれから10年以上の時を隔てた今でも、仲の良さは変わらず、益々深まっているほどである。

私たちのような一卵性双子は、医学的には遺伝子は同じ、とされている。
しかし性格は、育った環境や経験の違いなどで大きく変わってきているのは確かだが、
磁石のプラスとマイナスのように、お互いが切っても切れない関係のようだ。

 私たち一卵性双子の間には、親子の関係よりも強い「何か」を持っているようだ。私たちの意思疎通は、母親のお腹の中に入る前から交わされていた。実際本当に私たちの記憶として残っているのだ。
この話を何度となく、母親に話したそうで、私は話した覚えはないのだが、母親は何度も聞かされた、と言っている。
 私は、はっきり覚えている。

母親と父親を空のずっと上の方から、双子の姉となるべき魂と共に、見守っていたことを。
そしてある日、双子の姉の魂と無言のまま、
「あそこに行こうね、!」
と、当時新婚の父や母の住むマンションの上空で会話を交わし、大きく二人で頷き合ったのである。
つまり、私は今回の人生は、あの家に行くことに決まっているのだから、と生まれる前に既に双子の姉の魂と承諾を交わしていたのだ。
この話を全く当たり前のように母親にしていたそうなのだが、私はいつ話したのか、
全く覚えていない。
話した事を忘れて、今になっても時々母親に話したくなるのだ。
もちろん、この記憶は双子の姉にも当然あるようだ。
母親のお腹に入る前の話だが、魂はすっかり完全だったことも覚えている。



お腹の中に入って、すっかり小さくなってしまった肉体に入るのは、実はは苦労の人生への始まりの一歩だったのだが、それでも多くの未知なる経験を求めて、私たちは窮屈な小さな母のお腹に入り込んだ。

そう言う母も、一度まだ、私たちを産む10年以上も前の高校生の時分に、ブランコを漕いでいると、両サイドの誰もいないはずのブランコから、小さな子供の笑い声が聞こえたそうで、後に行く事になるから、よろしくね、と二人の子供のような妖精のような誰かが挨拶に来ているようだったと言っている。確かに、時はあるようでないのかもしれない。

 私たちは、同じ卵の中に入っていたので、1人分の狭い子宮に2人で入っていたので、本当に窮屈で、実際1ヶ月早く、二人合わせて1人分の重さで産まれてきた。特に私のほうは、母親のお腹から、足から産まれてきた逆子だったので、息が完全に止まって産まれてきてしまい、産声もあげずに数分後に息をし始めたそうだ。

それから1ヶ月の間、保育器に2人で入っていた。
とにかく、いつも一緒だった。
私たちは6歳になるまでほとんど口を開かず、愛想の悪いかわいげのない子供だった。
今でもかわいげの無い所は残っているのだが、、?
しかしそのせいで、幼稚園からは本当に入園を断られてしまったくらいだ。

実際に私たちにとって初めての集団生活は小学校からだった。実際私たち双子の間には、面倒な会話など必要ではなかった。
そんな会話などしなくても、すべて通じてしまうので、いつも無言の会話をしていたからだ。
 

ゾクに言う「テレパシー」、というものだろうか。そうなのかもしれない。どんな遊びをしたいか、今何を思っているのか言葉で出さなくてもすぐにお互いが分かってしまう。
だから、キャッキャッキャッキャと子供らしく健康的に遊んでいるのなら、隣の部屋にいる母親も安心しただろうに、全く声も音もたてずに静かに遊んでいるので、いつも寝てしまったのかな?と思って、そっと部屋を覗いてみると、まったくひどい有様なのだ。

一体いつ音も立てずに、声も立てずに、このようなひどい遊びが出来るのだそうか、と大人達は感心してしまうほどだった。
その状況と言えば、洋服ダンスの引き出しは、階段状態に器用にすべて上まで開けられ、服はすべて取り出されては放り出され、母親の鏡台の中の化粧品はすべて開けられたまま。
絨毯はクリームだらけ、ティッシュは新しい箱が、何箱も開けられ、雪のように紙が
ちりばめられている。
ベットの上で、トランポリンをして飛び上がっている二人の顔は、母親の口紅が塗ったくられて、口は真っ赤になり、まるでピエロのようではないか!

これだけの悪さを、笑い声も立てずにやってのける小さな二人は、まるで小悪魔のようだ。それでも忍耐強い母は、決して怒ったり、大声を出して、叱ったりしなかった。もちろん、母が強く叱ったりすることは多くあった。

しかし、母の叱る事と言えば、私たちが他人に対して傷つけるような事を言ったり、また、人にも自分自身にも正義感の無い行動を取ったり、また自分自身や人にに対して半端な事をしたり、無責任な行動を取ったり、そう言うときには、徹底的に一日中廊下に正座させられて、分かるまで説教されたものだ。食事の時間が来ても、関係なく分かるまで説教は続く。とにかく母は中途半端な事が嫌いなのだ。
だからこそ、半端でなく徹底的に小悪魔になって部屋で、想像もつかないくらいの遊びを発見して、遊んでいる私たちを決して規制したりはしなかった。

 私たちには、子ども用?のおもちゃなんてモノはずっと無かった。
大体「おもちゃ」の存在すら知らなかったし、テレビも家には置いてなかったので、
私たちの遊びと言えば、私たちの考えた独自の遊びが主だった。
その恐ろしい遊びや夢中になっていた遊びを、今いくつか紹介するとしよう。


 まず、小学校に上がるまでは、例によって幼稚園の入園を断られたので、
家や家の目の前の墓地や屋上などでほとんどを過ごした。

その遊びとは、家の中の場合は、ほとんど絵を描いて過ごしていた。絵と物語を一緒にした、絵本を描くことは、私たちの一番の遊びの中心だった。
その他、小学校に上がると、ピアノも習い始めた。

最初の1年間はピアノが家に無かったので、紙鍵盤を二人で作成して、テーブルの上に置き、ホロビッツか、誰か有名なピアニストのレコードをガンガンにかけて、一人が紙鍵盤のピアノの前に頭を垂れて、いかにも陶酔しきっているふりをした「ピアニスト」になりきってもう一人は、そのピアノコンチェルトの音楽に合わせて、猛烈に指揮を振っていた。
コンチェルトの全楽章が終わると、もう二人は汗だくになってぐったりしていた。

 また他の遊びとは、二人の20本の指を組み合わせて、色々なキャラクターを決め、名前も付けてその指を指人形のように動かしながら、それに連載の物語を作ることだ。
これは、毎晩寝る前の30分、押入を開拓して、作った2段ベットの布団の中に入ってからお互いが身を乗り出して、行う儀式だった。

 他の遊びと言えば、二人がそれぞれ一人20役くらいを掛け持って、家で学校を経営していた。
その名も「世界コンクール学校」。
ライバル意識の高い、色々なキャラクターの持つ音楽学生たちが集まり、そのキャラクターによって名前も決められ、出席簿まで作られていた。先生も教科によって、様々なキャラクターの先生もいたし、しかもそれぞれの生徒の親まで決められていたので、もう1人が20人以上は確実に演技しなければならなかった。

実際はたったの2人しかいないはずだが、私たちの想像の世界では、50人以上が織りなす人間模様が、毎日現実と共に並行に生き続けていた。その授業も、狭いマンションの廊下で行われた。
廊下と言っても、キッチン、寝室、書斎、の3つの部屋の入り口のドアがある分だけの長さしかない、狭い廊下なので、私たちがそんな狭い廊下で、学校ごっこなど座布団を敷いて行っているだけで、誰も通れない状態で、キッチンへ行くにも、書斎へ行くにも、寝室へ物を取りに行くにも、母は私たちが邪魔で仕方なかったはずだ。
しかしそれでも、決して、母は
「こんな所で遊ぶのは止めなさい、書斎や寝室や外へ行って遊んだらいいじゃない?」
とは言わない。
それどころか私たちの想像の世界を徹底的に思いっきり夢見させてくれたのである。

 私たちは、その狭い廊下が大変気に入っていた。人がどう思おうと、その狭い廊下は、私たちにとって、素晴らしい「舞台の壇上」だったのだ。
だから、その廊下では、月に何度かは、演劇も披露された。
いつだったか、ジャンコクトーの「声」と言う演劇を母と見に行った。

出演はたった一人で、ベットに横たわる熟女が夜中にかかってきた、男からの電話で長電話になり、泣いたり笑ったり、激怒したり、と人間の様々な情緒を現している、一人芝居である。
私たちはこの演劇をすっかり気に入ってしまい、家に帰ると早速、狭い廊下に演劇のセッティングを準備した。
ベットの代わりに、書斎から長いソファーを運び、電話台とスタンドが脇にセットされ、電話を置き、毛布を寝室から持ってきた。

もうこのセッティングだけで、人が通れないくらいに廊下はいっぱいになってしまった。それから、出演は希望者、と言うことで、私に決まり、私は、スリップ1枚になって、ソファーに横たわった。
端から見ると、全くの子供、と言うよりは寧ろ園児生、なので、色っぽさも全くないのだが、私はすっかり色っぽい熟女になりきって、スリップ姿でソファーのベットに気だるそうに寝ていた。
そして、廊下の電気が消され、姉のナレーターが始まった。


 「今日は、ようこそ「声」の舞台においで下さいました。
どうぞ、ごゆっくりご覧下さいませ。」と言って、キッチンのドアがガラガラと開けられ、キッチンのダイニングテーブルに座っている母と父の姿があった。
この準備の間、キッチンに閉じ込められていたので、トイレや寝室、書斎にも行けなかったことになる。
それでも、父も母も文句も言わずに、待っていてくれたのだ。
 私は、台本などは何もなかったので、最初の電話のベルを姉が口で鳴らすと、私は3回くらい鳴った後、気だるそうに身をソファーから乗りだし、スタンドを付けた。ようやく暗い廊下には、どういうセッティングになされているか、父も母も気が付いて、、まだ何も演技は始まっていないとうのに、もうばか笑いして、大受けしていた。私はその笑いも気にせずに、そして、「もしもし」と、出来る限りの色っぽい声を出してみた。

その瞬間にも母も父も大笑いしていた。あまりの背伸びした「色気声」が不似合いで、滑稽だったのだろう。
しかし、私はもうすっかりはまり込んでいた。
もう誰にも止められないほど、この熟女になりきっていたからだ。私は、最初は電話の相手の男であろう人と、穏やかに話していた。
しかし、だんだんと、声を荒げ、怒り狂ってきた!
もうソファーから完全に立ち上がり、毛布を蹴落とし、狭い廊下で手を振りかざして、怒鳴りまくっていた。
しまいに、よく母と父が夫婦喧嘩するときの、決まり文句なども勝手に出てきてしまい、何が何だか分からないが、台本が無いのでもう止められない状態になっていた。これを見てもう父も母もお腹をよじって笑っていた。

もうこのまま笑いすぎて息が止まってしまうのではないか、と思われるほどだった。しかししばらくすると、相手の男はどのように熟女をなだめたのか、女心をくすぐるうまい言葉でも囁いたのか、ようやく熟女のヒステリーもおさまってきて、今度はシクシク泣き出してきた。
次第にシクシクが今度は大声を上げて泣き出し始めたかと思うと、もう泣きわめいて叫んでいた。
まったくこの女は、
「女はこれだから、めんどくさいんだよな⁈」
と言う世の男達の声が聞こえてきそうな熟女モドキ。
そして、ようやくこの小さな熟女は泣き疲れたと見え、今度は笑い出してきた。
舞台の設定では、夜中だと言うのに、近所迷惑も考えずに、声高らかに笑っていた。女は世界一の幸せ者のように笑い続け、舞台は幕を閉じた。


「双子の秘密」第一部はここまでになります👩‍❤️‍💋‍👩

続きは、明日のブログにアップしますので、また遊びに来てくださいね🤲

今日の音楽は、55日間続いたロックダウン最後のおうちでライブ録音シリーズの
新曲「扉 PORTE」です🎤🎧

2020年5月10日日曜日

9歳の初めての入院💉

こんばんわ🌙🌏
尺八シンガー クレアシオン桂のブログをいつも読んでくださりありがとうございます🤲
段階的なロックダウン解除まで、あと2日に迫りましたが、
せっかく内観的に始めたブログですので、このまま続けていくいきたいと思っておりますので、皆さま時々遊びに来て下さいね😅

部屋の窓から見る夕焼けも、毎日違って楽しい時間に😚

今日も前回に引き続き、20年前に書き溜めていたエッセイから、セレクトして
ご紹介したいと思います‼️

「初めての入院」


と言うタイトルです💉 

私は9歳のときに西洋フルートを習い始めました。
小学校で習い始めるリコーダーの時間がとても楽しみで、
中休み外に遊びにもいかず、教室に残り、一生懸命練習してたのを思い出します🎹

6歳から、双子の姉と、ピアノを習っていたのですが、家にはアップライトピアノが1台しかなかったので、いつも双子の姉が、トイレの休憩に席を外した時しか、練習できない
事に、苛立ちともどかしさを覚えていたので、

親にお願いをして、自分だけの持ち運び出来る楽器を習いたくなったのです🎻
バイオリンに憧れましたが、高そうなのと、9歳からでは遅いだろう、と感じて
フルートを選びました。

ところが‼️ フルートを始めて半年が経ち、小柄でまるで幼稚園生のような
わたしは、重い肺炎にかかってしまいました🤣

今回は、そんな人生初体験だった入院生活を振り返り、書いたエッセイです🙆‍♀️
編集カット無しで、そのままお届けします😉



わたしは、今真っ暗な静まり返った集団病室で、手元の小さな豆懐中電気のわずかな明かりの下で、双子の姉に手紙と、小さな小物入れを左手だけで作っていた。

なぜなら右手の甲には、しっかりと太い点滴の針が刺さっており、その太い針の先には、透明のパイプが通っており、さらにその先には、大きな1リットルの黄色い液体の入った瓶がベットの脇に吊されていたために、自由に右手を使うことが出来なかったからだ。

それでもわたしはこの夜中の作業が唯一の楽しみだったのだ。
しかも明日の夕方には、母が見舞いに来てくれることになっているので、その時に間に合わすために、今夜なべをしている、というわけだ。

そもそもわたしはなぜ、このように入院することになったのかを説明しておくと、わたしは「重度の肺炎」、ということだった。

しかしわたしは、実際この病名が、果たして本当に自分自身に起きている病気なのか、信じられなかったのだ。
なぜならわたしは全く苦しくもなく、全く元気な状態で、何上にこのような病院に、一日中右手と左手に交互に点滴を受けながら、お風呂にも入れずに寝ていなければならないのか、全く見当もつかなかったからだ。

周りを見回すと子供たちばかりのようだ。しかし、隣の子供たちと話すことも、あまりおもしろいとも思えなかったし、2週間も学校を休めば、授業に遅れを取ることが一番気になって仕方なかったので、毎日昼間は教科書ばかり開いていたので、本を読むと、疲れるので読み過ぎないように、といつも看護婦に注意された。


わたしは、病院に対して一つの「秘密」を持っていた。
わたしはこの「秘密」を行うことによって、無意識にも医者というものを観察し、確かめてみたいことがあったのかもしれない。

この秘密はとうとう最後の退院の日まで続けることになってしまった。
そして最後には、この「秘密」を行ったのにもかかわらず、わたしは退院できたことに、密かなるわたしの勝利を感じることができた。

一体のこの「秘密」とは何だったのか?と言えば、それは大したことのない、寧ろ恥ずかしく、小さなことと、わたしは思っていたのだが、実は根本的な大きな決断だったのかもしれない。

 その「秘密」とは、わたしは、入院した最初の日から、「薬」を飲まなかった。
それは、西洋医学を信じていない、だとか、薬を信じていない、と言う子供ながらの徹底したこだわり、でもなかった。
わたしはまだ小学校4年生だった。

しかし身体の大きさは幼稚園性並だったので、従って、喉のサイズも小さかった。

大きな粒の薬が小さなオチョコほどの病院指定のコップの水だけでは、一度で飲み込めなかった、と言うくだらない理由からだった。

つまり、飲まなかったのではなく、飲めなかったのだ。

しかし一番最初に、看護婦が、ワゴンを病室に運んできて、
「お薬の時間です」と言って、
一人一人のベットにそれぞれの薬を持っていき、お決まりのように薬を配り、
わたしが、その小さなオチョコのようなコップに8分目ほどに入った水だけでは、
5種類くらいもあるたくさんの粉薬や、カプセルやら、大きな粒の薬など、5,6種類もの薬を一度では飲み込めずに、
「もう一杯下さい、、、」と何度も看護婦に頼み、焦れば焦るほど飲み込めずに、
また、「もう一杯、下さい、、」としまいに5回目くらいになると、看護婦は呆れたように不機嫌になり、もう行ってしまったのだ。

わたしは、グチョグチョに粉もカプセルの中身も口の中で溶けだし、他の薬と混ざり始め、苦みに耐えられなくなり、吐き気をもよおし始めたので、悪いとは思いつつも、
わたしはトイレに駆け込み、全部吐き出してしまった。

わたしは、うがいをして、スッキリとすると、何気ない顔をして病室に戻った。
この薬の時間は1日に3回もあった。
2回目くらいからは、今度こそ一度で飲めたいいのに、と覚悟をして臨んだ。しかし、1度目の失敗が足を引っ張り、今度も2杯目を頼むと、今度こそ看護婦は、
「もうこれで終わりですよ!」
と言って、またもや忙しそうに行ってしまった。

わたしはやはり口の中はグチョグチョだったが、
思わず、ニコッと笑って大きく頷き、「もうOK!」という素振りをした。

それからというもの、わたしは一杯目で、飲み込んだふりをして、看護婦に大きく頷くことにしてしまった。
そしてその後必ず、吐き出していた。

とうとうわたしは入院中の2週間の間「薬」を飲むことはできなかった。



しかしおもしろいことに、2日おきくらいに、医者が看護婦と共に、診断に来たのだが、わたしを診断したあと、看護婦に何の薬を飲ませているかを質問し、難しい専門用語言うと、医者はすました顔で、
「うん、薬が効いているようだな。」と言って、
わたしのカルテに何かを書き込んでいた。

わたしは、笑いをこらえるのに必死に真面目な顔して、病人のように弱々しく医者の質問に答えた。
医者も看護婦も、真面目な顔を崩すことなく、しっかりと仕事をしていた。

 わたしはその内に病院生活をエンジョイすることにした。
 そして幸いにも、1週間もの間続けていた、トイレに行く時も外せなかった点滴も、
大分良くなっているので、外してもいいということになった。

右手と左手に交互に刺していた、点滴の跡は真っ黒になっていて、手全体が痛くなってしまったほどだ。肺炎の自覚は全くないが、この点滴の針を刺している手が一番痛かった。

なぜ、このような重い肺炎になったのかは、病院の説明によると、まだ小さな身体なのにフルートを吹いているのが原因だ、ということだった。
確かにわたしは小さいながらも小学校の4年生に入ると、縦笛の好きだったこともあり、フルートを始めた。


私がフルートを始めた理由は至って単純なものだった。
私と双子の姉は、6歳からピアノ習い始めたのだが、姉の方が真面目に練習していたこともあって、進みが早かった。

始めはそんなに違いはなかったのだが、小学校3年にもなると、姉とわたしは、練習している曲に大きな差が出始めたのだ。

しかしピアノが同じ年の姉から、どんどんと差を付けられても、あまり競争心などは湧かなかった。
大体、小学校2年の時に祖母からプレゼントされたアップライトのピアノを、学校から帰ってきたら独り占めするのは姉だったので、わたしは練習する時間が姉の半分以下しか残されていなかったのだ。
わたしはもう姉と争うのをさっさとあきらめて、何か姉のやっていない新しい事やりたい、と母に頼んでみた。

姉がピアノを弾いていても、その間に誰にも取られない楽器を。だからその時のわたしには何でも良かった、と言ってもいいかもしれない。
わたしはその頃すでに、自己流で絵を描くのが趣味だった。
姉がピアノをいつものように弾き出すと、わたしのアトリエにさっさと潜り込んだ。
わたしのアトリエは押入の中を改造した小さな絵を描く専用の部屋だった。

わたしは身体が小さかったので、その部屋に何時間籠もっていても、一向に平気であり、寧ろ楽しかった。
わたしは、母の集めていた、ルーブル美術館全集を第一巻から順に、模写し続けたりした。

押入の中は昼間でも真っ暗だったので、小さな専用のスタンドも用意してくれた。
わたしはこの部屋が、大のお気に入りの部屋だった。
わたしが一番自分らしくいられる場所。
ホントは鍵まで付けたかったくらい、、。

ピアノは止めたくなかったけれど、その頃学校の音楽の授業で始まった、リコーダーの時間はわたしの大好きな時間だった。

そんな理由もあってフルートを始めることになった。


しかし、実際に初めてワクワクする心を抑えながら、渋谷のヤマハの音楽教室に行った時には、まず身体が小さいこともあるので、フルートをかまえても指が届かないだろうし、しばらく身体が大きくなるまでは3つに分かれるフルートの楽器の歌口部分の頭部管の練習しかさせてくれなかっのだ。

わたしはがっかりしてしまった、、
すぐにも、あの銀色の長いキラキラ光る美しいフルートの音を出せるのかとばかり、
楽しみにしていたので、頭部管だけしか触らせてもらえないことは、ひどく悲しみ、
落ち込んでしまった。
しかし、悔しかったので、家に帰ってから、わたしは教則本を見ながら、フルートを組み立ててみた。
そして実際ホントに指が届かなかったのだが、必死に延ばして、指と腕がちぎれんばかりに延ばして、運指表に基づいて、実際にフルートをかまえてみた。

そして小さな身体が、だんだんとしびれてきたのだが、それでも頑張って吹き続けた。
美しい音には程遠く、「ため息」のような、風のような雑音だった。

それでも5分ほど吹き続けていたが、次第に酸欠?なのか目眩がしてきて、床に倒れていた。
子供だったこともあり、自己流で吹いたので、呼吸法がきちんとしていなかったようだ。おそらく肺で、ラジオ体操の要領で深呼吸をして吹いていたので、気がつかないうちに、酸欠になっていたのであろう。
そんなほとんど、練習とは言えない意地の練習を、半年も続けていた頃、
わたしは、「重い肺炎」らしき?病になり、入院することになったのです。
周りの先生や大人たちは、母を除き、
「こんな小さな身体で、フルートを習わせるとは、残酷だ!」
と心配してくれ、医者たちも「このように小さな身体では、気管支も弱い事だし、やめたほうがいいですな、」と言った。
しかし、わたしとしてはフルートをやめるも何も、まだソ、ラ、シ、ド、のたった4つの音しか習っていない状態で、フルートをやめる?なんて、冗談じゃない、と内心怒っていた。
わたしは退院したら、その日から吹いてやる、と鼻息を荒くした。

 しかし、やはりどうあがいても、肺炎の原因はフルートとしか考えられなかったようだ。わたしは、この唯の棒に穴があいただけとも見える、「フルート」にやられてしまった事がなんだか悔しかった。

 元々、病院が大嫌い、なわたしだったし、しかも初めての入院で、最初の日から、
血液検査や、点滴のために太い針ばかり、腕や手に刺されるし、大好きな風呂にさえ入れなかったので、身体を看護婦が拭きに来てくれるのも、正直言ってイヤな時間だった。

そんな訳で、病院での唯一の楽しみと言えば、
夜中にちょっとした手仕事(と言っても小物入れなどを手縫いで縫うなどのこと)をしたり、手紙を書いたりと、
冒頭に書いたような事をすることだった。

わたしは毎晩、夜勤の看護婦に見付からないように、上手に手仕事を行っていた。
大抵は、足音がすると、わたしは小さな懐中電灯を消し、寝息を立てて寝たふりをしたので、見付からずにすんだ。
しかし、計3回ほど、見付かって怒られた。
その度に、「もういい子に寝ます」、と看護婦を安心させて、
彼女が行ってしまって足音が聞こえなくなると、またそっと懐中電灯を付けて、続きを淡々と行った。

 しかし、考えてみると、薬は一つも飲まなかったし、夜中は手仕事のために睡眠不足、一体何のための入院か分かりゃしない。
しかしわたしは2週間後に、すっかり完治した、と医者にはっきりと言われて、元気良く退院した。
きっとやりたいことを意外にワクワクしながらやっていたので、自然に免疫力がアップしたのかも知れない。

 初めてのこの入院以後、わたしは幸い一度も入院とは縁がない。このまま入院とは縁のない人生であることを願っている。        



  

                                  七段 鶴の巣籠り おうちでライブ

2020年5月7日木曜日

べっこう飴事件

今日はロックダウン52日目、快晴のパリから、こんにちわ🌏
尺八シンガー、クレアシオン桂のブログを読んで下さり、ありがとうございます🤲

毎日想う事、内観をたっぷりする時間を与えられ、頭や心は違う意味で
何と忙しい事か、、‼️



コロナウイルスのパンデミックのロックダウンを機に、内観代わりにブログを書き
始めましたが、夏まで全公演もキャンセルになり、オンライン生徒数人以外は、全く
時間が出来たので、昔のアルバムや、パソコンのファイルなども整理中😅

ちょうど20年前の3月半ば、桜が満開の大好きな春に、突然の事故で最愛の旦那と死別
しました。
今の時期は、四十九日を終えたばかりで、事故以来、呆然と生きる力を失って、半分
暗闇の墓に足を半分突っ込んだように、生きていましたわたしでしたが、
気持ちを落ち着かせるために、

今ブログを書くように、エッセイを書き始めました📗📚🖋

半年くらい書きつづけたり、歌を作ったり、今みたいに何か生み出してばかりいた
時期でしたが、スッキリしたのか、その書き溜めたエッセイは、その後読み返す事も
なく、古いフロッピー(なつかしい🔏〜‼️)の中に、、

その中で、面白い表題のエッセイを見つけました🧐

少し長いエッセイになりますが、修正せずに、そのまま載せますので、
読んでみて下さい🍀

わたしが、生まれた時、仮死状態で生まれましたが、この人生で二度目に
死にかけた時の、5〜6歳だった時の話しが書いてあります。
「生と死」
について、改めて考えさせられるエッセイです。



「べっこう飴事件」🍯


  ある日、ふと歯を磨いているときに、鏡の中の自分をずっと見つめていた。
瞬きもせずに数分見つめ続けていると、ふと自分の顔が原始人のような顔に変わって、
ぞっとしたのを覚えている。
小学校もまだ低学年のころだっただろうか。私は、なぜいつも自分のこの鏡の中に映る、小さな自分の肉体と共に動き、この肉体の口を通して喋り、毎日を生き続けなければならないのか?
これは一体どのくらい続くのだろうか?
永遠?なのだろうか?
それとも終わりの日がいずれ来るのだろうか?
そんな疑問が起こり始めたのは、小学校も上がる前には感じていたのを、
はっきりと覚えている。
そんなある日、一つの事件が起こった。

 私と、双子の姉は、いつものように両親の寝室のベットの上で、トランポリンのように跳ね上がって遊んでいた。
このトランポリン遊びは大のお気に入りの遊びで、いつもストレス発散のために、行われていた。
その日も、いつもと何も変わらない穏やかな時間が流れていた。
 私は、先日誰かからもらったと言う、平らな大きな「べっこう飴」を母にもらいにいった。なかなかな美味で、双子の姉の分もあるので、2つほどもらいに行った。
母からもらうと私は早速、自分の小さな口の中にはちょっと大きすぎるくらいのこのべっこう飴を口に放り込むと、姉の所へ持っていき、姉にも渡した。
姉も小さな口の中へそれを放り込んだ。

By Takako Hirano 


 しばらくは、二人キャッキャと騒ぎながら、トランポリン遊びをしていた。
私は笑い出すと止まらない、と言うか、笑いすぎて身体ごとひっくり返ってしまう、
というお行儀の悪い癖があった。
その時も、あまりの楽しさに、まるで雲の上で飛び跳ねている気分になっていた。
小さな口を精一杯大きく開けて笑っているまさにその時、突然のように、私はそのまだ大きな平べったいべっこう飴を呑み込んでしまった。
と言っても、まだべっこう飴は完全に飲み込めるほど小さくはなっておらず、しかも私の喉はまだまだ細かったので、ちょうど喉の奥に完全にはまってしまった。
私は急にだんだんと息が出来なくなってしまった事に気が付き、慌てて姉に
「無言の緊急メッセージ」を送り、そのままベットから降りて急いで隣りの部屋にいる
母の元へと飛んでいった。

 そして「喉に飴が・・・。」と苦しそうに事の次第を告げると、
母は急に真顔になって私の喉の奥を見ると、相当奥に入ってしまっているらしく、
私をうつ伏せにさせて背中を叩いたり、色々と試みたがうまくいかなかった。
その内に慌てた母もマンションの管理人の所へ上がっていき、助けを求めた。
この騒ぎに何事か、とマンションの隣の住民も心配そうに出てきた。
こんな時には水を飲ませたら、と言う恐ろしい助言も聞き入れてしまい、
私はガブガブと水を飲まされ、益々、奥のべっこう飴はしっかりと奥で固まってしまい、返って逆効果だった。
管理人は今救急車を呼んでいるから、と叫んでいたが、当人の私はもう息が出来ない猛烈な苦しみで、ああこれで私の命も終わるのかな?
と初めてぼんやりと思ったことを覚えている。



 そのうちに私は気が付くとマンションの踊り場に出ていて、母を含めた3,4人のあたふたとしている大人達の姿が次第にぼんやりとしてきて、気が付くともう「苦しさ」は無くなっていた。
 「ああ、なんだ、私はもう全然苦しくなくなったから、そんなにみんな慌てないで。」、と叫ぼうとしたが声が出ないのだ。
しかし、よく周りを観察してみると、今まででと少し感覚が違う事に気が付いた。
なぜなら、私は青ざめ、紫色に変色した顔をした私自身を、マンションの踊り場の少し上の方から、何となく空にフワフワと飛んでいるような形で、覗き込んでいたからだ。
しかも先には、目の前に見えた母の顔や大人達の姿も、今度はすべて後ろ姿の背中しか、見えなかったのだ。
「あれっ!」、と私は少し不思議に思った。
「べっこう飴を呑み込んで苦しかったんじゃなかったっけ?でもそれは、双子の姉の方だったのかな?」
と本気で一瞬思ったりもした。

 いつも同じ顔を目の前に見ることには、慣れているので、それほどこの変化にはびっくりしなかった。
そこにいるのは、双子の姉?
でも姉はしっかりと、青ざめた紫色の顔をした私の側にくっついて、心配そうに見守っているではないか?
 でも大人達みんなは、みんなを後ろから見守る私自身には誰も気が付かないらしく、
人形のような、小さな青ざめた「誰か」のために一生懸命だった。
「誰か」は「私自身」 だとは、決して思えなかった。
なぜなら、私自身は、この「私」であって、今みんなを見ている「この自分」しか有り得ないからだ。
 その時急に、私はいつも一緒に行動していた肉体から、「とうとう離れている」、とういう現実に気が付いた。
私が今まで何度となく、抱いていた疑問が今まさに分かろうとしていた。



 その時だ。急に、沢山のパンが、母の手によって私の小さな口に押し込まれて、私の口は「口裂け女」になってしまうかと思われるほどに感じ、急にまた咳き込むような、
息苦しさを感じて、私はまたもや、この小さな肉体の中に入り込んでいた。
また、前のように母の顔が目の前に現れ、3,4人の大人達の顔が目の前に押し寄せていた。
 「カコ!」 
と言う懐かしい双子の姉の声も聞こえた。
ああ、私はまたこの小さな小さな肉体と共に動いていかなければならないのか、
と少し残念にさえ思った。
先ほどは、何だか身軽になったようで、そのまま、空を飛んでいき、宇宙へまでも旅出来そうなくらいな自由な感覚で、とても気持ちよかったのに・・・。

 私の残念な気持ちとは裏腹に、母や大人達は、歓声を挙げて、息がまた出来るようになり子供らしい赤い顔に戻った私を見て、にこやかに笑っていた。
しかし、いつの間にか不思議にも元の肉体に戻ってしまった瞬間には、先の事がぼんやりとしてきて、とうとう忘れてしまった。
その後、20年以上も経って、ある事をきっかけに思い出すまで、私はすっかり記憶の部屋に、この記憶は閉じ込められていたままだった。



 後から聞いた母の話によると、管理人が救急車を呼んだ、と言ったが、救急車が来るまで私をほっといたならば、きっと窒息死してしまうだろう、と咄嗟に感じ、何とかせねば、と必死だったと言う。
しかしだんだんと顔色は青ざめ、紫色に変色し、土気色に変わってゆく私を見て、この子、本当に危ないかもしれない、と思ったそうだ。
もしかしたら本当にあの肉体を離れている瞬間と言うのは、一瞬ではあるが実際に息が止まり、私はこの世で言われる「死」の入り口に入りかけていたのかもしれない。

 とすると、「死」は決してすべてが暗黒の「無」になってしまう恐ろしい事ではないのではないか?
あれから20数年経って、ふとあの時の記憶を思い出した時には、あの瞬間は、限りない自由への入り口のように感じ、とても身軽だったのを思い出したのだ。
あんなに簡単で、まるで隣の家に遊びに行くような感覚で、とても自然なことが、
「死」ならば、「死」は決して終わりではなく、寧ろ「始まり」なのではないか?
どんな宗教を信じていようが、また無神論者であろうが、自然主義者であろうが、動物愛好家であろうが、人に共通していることとは、
「人の命は決して終わらない永久のものである」
と言う事ではないだろうか? 



そのことに気が付いてからは、私は前に漠然と「死」に対して疑問や不安を抱いていた時よりも、心が自由になり、生きることがいつもいつも楽しくなってきたようた。
心から生きている事が嬉しくなっているのだ。
たとえ苦しいことがやってきても、あの時に苦しんで青ざめている自分の肉体を、冷静に上方から客観的に見守る私自身のように、いつも冷静に受け止めるられるようになってきたようだ。

 もちろん、怒ったり、悲しんだり、嬉し泣きをしたり、腹を立てたり、と言う人間的な感情が無くなってしまった、という意味ではない。
寧ろ前よりも、そう言う感情の変化を敏感に自分自身が感じ取れるようになってきているのだ。
しかもその感情の変化さえも、常に冷静に、そして客観的に見守る自分が常に存在するので、決してその自分自身がその感情の虜になってしまう心配は無かった。
つまり、「感情のために自分を見失ってしまう」、ことが無くなったので、
見えない「力強い太い柱」が常に自分の中に立っている、そんな感覚だろうか?
だから、どんなときにも「恐れる心」が無くなってきたのだ。
「長い人生、何か起こって当然」、と見ているので「何かが来るかもしれない」
と言う恐れはもう存在する必要が無いのだ。
これは単純なことのようで、しかし人生を幸せにしてゆく重要なポイントであるような気がする。 
 「すべては益に変わる」と言う聖書の箇所がある。
私の好きな箇所である。
人生において無駄なことは一つもない。だから、その時には無駄に思えることでも、
精一杯、楽しんで力を尽くして取り組んでいきたいと思っている。

続


長いブログになりましたが、共有して頂きありがとうございます🌏


2020年5月3日日曜日

5月11日以降の外出制限措置の解除発表について

皆さま、こんにちわ🌏

早いもので、Covid-19 対策外出制限ロックダウンから今日で47日目‼️となりました。


久々のブログになってしまいましたが、尺八シンガー、クレアシオン桂のブログに訪問
、いつも読んでくださってありがとうございます🤲

昨日はフランスは勤労感謝の日で、鈴蘭の花が、写真街にいっぱい💐

1キロ以内のご近所のお友達が、食材の差し入れや、お花のプレゼントして下さいました🎁
愛情たっぷり、気持ちがホッコリします😋
嬉しいな😊 コロナのパンデミックは、決してマイナスな面ばかりではないような
気がします。
其々に出来る事を考えて、行動したり、表現したり体現したり、それでまた刺激を与えられたり、与えたり、、後回しにしていた大切なことをしっかり見つめて考えたり、
と、何か人の意識を確実に変えるきっかけになっているように思える🌏


4月28日に、フィリップ首相が、国民議会において5月11日以降の外出制限解除について🇫🇷演説を行いました‼️


概要は詳細に渡るため、上記の日本大使館のサイトが更新されていますので、
参照にして下さると良いと思いますが、

わたしは、フリーランス演奏家としてのコンサートやイベント、公演仕事の他に、
音楽講師として、また、デザイン関連の仕事やコーディネート仕事もしているため、
音楽院や、アトリエ、教室、小学校などでも音楽やアート系を教えていますので、
新たな発表で、今後の方向性がどう変わったか、を見てみました、、

●5月11日以降,保育園,幼稚園,小学校は再開可能とするが,登校は自由とする。マスクやジェル等を供給するが,子供のマスク着用は義務づけない。

●  5月18日以降,中学校を再開可能とする。マスクを市町村から供給するので,先生も生徒もマスク着用を義務とする。
●幼小中学校は,15人以下のクラスとする。保育園は10人以下とし,医療従事者の子供が優先される。
●高校は当分閉校。5月末に,6月2日から再開できるか検討する。

大学や、各専門機関の学校は、9月まで閉校

 

小学校でのアトリエ講師を再開するかどうか、はまだ連絡を受けていないから
分かりませんが、小学校ではマスクは義務ではない⁉️
ならば、先生は義務?
歌の教室を担当してるわたしは、マスクなぞしたら、歌えない?もしくはモゴモゴして
何を歌っているか、分かりませんよね❓
講師にみな、コロナの検査義務があるかどうか⁉️



今日の近くのパリ15区の市内🧐 まだ5月2日で、一時的外出制限解除まで、9日間あるんですが?賑わいすぎ?

●カフェ,レストラン,バー,ディスコ,大型ショッピングモール以外の
商業施設は5月11日以降再開可能。

●商業施設では,1mの距離や人数制限,マスク推奨等につき,配慮する必要がある。


●5月11日以降,100km以下の移動は解禁。(証明書無しで外出可能)
100km以上や県をまたぐ移動は現状どおり特別な場合(家族の理由等)に限られ,証明書が必要。
●RATPなど地下鉄やバスなどは70%程度に回復。市内交通は元に戻していく。席数は半減。
●タクシーも含め公共交通機関を利用する際は,マスクは義務。


●コンタクトスポーツ・集団スポーツも不可。ビーチは6月1日まで閉鎖。

●大型美術館,博物館,映画館,コンサートホール,パーティールームは引き続き閉鎖。

7月中旬まで、と前のマクロン大統領演説では言われていましたが?
夏休みはパリのカルチャーセンターやイベント会場は休館になるので、
公演活動はやはり8月までは全滅ですね🤣

●大型フェスティバル・スポーツイベント等は,9月まで不可。サッカー2019-2020シーズンも再開せず。

サッカー大国フランスが、シーズン再開しないとは、やはり前代未聞の事‼️


わたしは、ひたすらロックダウン中は、与えられた限られた環境内で、
表現できるか、体現できるかに挑戦したい、と言う自分自身への目標が
有るのです😅



リサイクル着物を解いて、縫って👗編んで🧶 新しい和洋折衷の舞台用ドレスを制作してみました😋

秋を楽しみに、久々に立つ舞台の感動をイメージしながら、ひと針、ひと針、
また、編み続け、縫い続ける日々です👍
果たして、どんな地球🌏になっているのでしょうか?
ワクワクしますね🍀

9月まで、コンサートは全てキャンセルになり、舞台に立てない分、先日は、初めて
静止画から録音した音源の動画アップも編集、頑張ってみましたよ🎹

「夢僧寺」Musô-ji と言う、尺八と篠笛のデュオの2017年にフェスティバルのために、
制作したオリジナル曲です。
篠笛演奏は、高校時代の同門、同級生の 朱鷺たたら氏( http://www.shinobue.com )です👍
めちゃくちゃ上手くて、篠笛会の第一人者です。

動画編集に一日がかりで😆苦労しました!
たくさんの方々に観て頂けたら、幸せです🤲
チャンネル登録もして頂けると、コンサートが6か月無くなって
しまった私には、やはり励みになります☺️
どうぞ、宜しくお願い致します🙇‍♀️) 





2020年4月23日木曜日

Covid-19支援金の知らせ

こんにちわ🌏
尺八シンガーのクレアシオン桂のブログに、いつも訪問ありがとうございます😊
またまた5日ぶりのブログになってしまいました🍀

1ヵ月1万円生活、なんて番組がありましたが、ほぼそんな状況の外出制限コロナ
ロックダウン1ヵ月をサバイバル的に楽しみながら、暮らしています😚



人生とは不思議で、その人に必要なモノは、ちゃんと必要な時に
与えられるのですね‼️

1キロ以内に住む友人たちからの愛が篭った新しい春先の服や、
食料差し入れやらで、着るモノも、食べ物にも全く困らないですし、

素敵な生地のテキスタイルデザイナーから、たくさんの素敵なお洒落なモチーフ
の生地を預かって、囲まれてるため、アイデアがわんさかと年中無休お篭り副産物は生まれるしで、

持つべき宝は、本当に助け合える友達だなぁと、




愛がたっぷり感じますよね、、見るだけでも幸せな気持ちになります😋
まあ、一人暮らし(+小さな🦜)だけですから、これだけで、二週間は生きれますよ😍

この一か月の突然の世界のパンデミック封鎖で、特に改めて痛感しています🍀

日々新しい歌作りや、作曲に勤しめる貴重な貴重な時間を、幸せを噛み締めながら、
感謝しつつ過ごしています

とは言え、4月に入り、

オンラインクラスやレッスンをスタートしました‼️

生徒さんは、尺八だけでなく、また
フランスの小学生の生徒さんには、ピアノや歌のレッスンなど)
また、楽曲共同制作をZoomやスカイプなどで、テレワークも開始しました💻



わたしの生徒さんにだけの限定YouTube ビデオで、生徒さんに個別のプログラム
で、週に1〜2回 一曲ごとの15分ずつの配信をしています🎹

それから、4月6日に、3月17日からの外出制限、国境封鎖により、予定していた公演も
多数キャンセルや延期に、アトリエクラスやレッスンなども大幅にキャンセルされ、
収入はやはり激減したため、

Direction générale des Finances Publiques  ( フランス財務局)に
d’aide aux entreprises fragilisées Covid-19 ( 脆弱な個人事業主または小中企業社向けの
Covid-19のための支援金1500€)

を申請していましたが、今朝ようやく、振込確定の連絡を、財務局より貰えました。
フランス人フリーランスの友人たちは、先週には確定メールを貰えていた
ようで、わたしたち日本人や、アーチスト友人たちは、やはり今日のメールが多かった
ようで、外国人が少し遅いのですね😊

フランスに在住している外国人でも、滞在許可証を保持し、小中企業会社の起業家、
個人事業主、でSiret番号を取得していれば、申請可能です。
対象者のフリーランスの方々は、日本人でも是非、財務局の以下の仏サイトリンクに詳細がありますので、申請されてみて下さい❣️


州と地域が設立したこの連帯支援基金は、コロナウイルス危機の経済的影響により最も影響を受ける非常に小規模な企業を支援することを目的としています。

 トレーダー、職人、自由専門職、その他の経済主体を対象とし、その地位(会社、起業家、非営利団体など)や税および社会保障制度(零細起業家を含む)は問われません。

 従業員10人以下、年間売上高は100万ユーロ未満、課税対象の年間利益は最後の会計年度で60,000ユーロ未満の企業が、支援申請対象になります。

この援助は、2020年3月が、2019年3月と比較して売上高の50%以上を失った企業に支払われます。

 1社あたりの支援金申請額は、最大6,500ユーロ。

 2020年3月に申告した売上高の損失と同じ額の援助から、1,500ユーロの制限内で、   2019年3月と比較して恩恵を受けることができます。

また更に4月15くの日時点で、更なる困窮の中にある会社起業家や個人事業主には、
追加支援金申請も可能になるようです😃

 4月15日の時点で最も困難な企業は、追加の支援を要求することができる。 援助額は、会社の規模と状況に応じて、2,000ユーロから5,000ユーロを申請することができる。   

どうぞ、フリーランスがたくさんのフランス、みんな封鎖が解除されるまで、助け合いながら、乗り越えていきましょう💕

最後に、色々な片付けをしていましたら、出てきた懐かしいDVD
双子の亜生(AOI)との、ジュメルライブ(千葉の印西市) 2013年が出てまいりました😍
しかも、子ども名古屋豪華帯を使い、1ヵ月かけて手縫いで、作ったお揃いの
ミニスカートドレスでしたよ🤗

2013年8月 ジュメルライブ



母が1990年代に書いた「ゆめ」という美しい詩に2010年初夏、母を天に見送る少し前に
メロディをつけました。

家族葬で、母の大好きな友人たちを招いて、二人で歌って母を天に見送った懐かしい
思い出の曲🍀
母は、わたしたちの中で、ずっとずっと生き続けています💕







2020年4月17日金曜日

お籠りの副産物🌸

皆さま、こんばんわ🌙🌏

外出制限が出てから今日で1ヵ月が経ちました。
尺八シンガーのクレアシオン桂のブログに訪問ありがとうございます🤝

あっという間の1ヵ月で、一日一日を感謝しながら、地球のため、
今一番苦しんでいる方々、コロナに感染している人たちだけではなく、
この世界的なコロナパンデミックにより営業停止を余儀なくされている経営者、
また休業せざるを得ない者たち、また不安や恐れで、未来を信じらなく
なって、大切な命を投げ出してしまうくらいに、ドン底にいるかもしれない
方々の事を思い、祈りつつ、只管今を感謝して過ごしていると、時はあっという間に 
過ぎ去っていくようです🌸


Photo by Takako Hirano 

世界中が、お籠り時間が増えた事で、やりたかった事を一つ一つやっている
毎日ですが、その一つに、

オリジナルデニムニット入り🧶お洒落ツーピース
完成しました‼️

Photo by Reiko Nonaka

制作日数は、2週間かかりました!


この素敵な生地のテキスタイルデザインは、Jean-Paul さん。
これに倉敷のクロスオーバー社の玉虫光沢デニムを4〜5ミリに細くカットし、
棒編み用10号で、ザックリと模様編みをして、片袖側、またスカート
の片側に生地に合わせて縫い込んじゃいました‼️


Photo by Reiko Nonaka 

デニムニットを合わせてない反対側のスカートの丈はわざと短く
してみました😅
型紙も無しで、いきなり裁ちバサミで、ザクザクと生地をカットしてしまう
我流なやり方なんですが、ゾクゾクしながら楽しみながら作れました😋



デニムニットは、上記写真のように、生地を2メートルくらいずつカットして、編み、
またカットして、編んで、の繰り返しをしながら編み進めて行きます☺️
減らし目、増やし目、なども、編み図も頭の中で、イメージして


わかりにくいかも?ですが、ベルトは、棒編み用5号で、2メートル
飽きましたが、編み続け、完走😆

編みながら、試着しながら、と何ともリスキーな、スリル満点の製作方法なんですが😚

何とか完成いたしました👗

同じ、玉村光沢デニム(倉敷クロスオーバー社)の生地でデニムニット入りのドレスも
昨年の夏に製作しましたが、



胸の部分が、デニムニットになっています👗
これに、さらにボレロも製作‼️
袖口が、デニムニットに🧶



この自作ドレスを着用した公演のYouTube は以下で観れますので、 
良かったら覗いてみてくださいね😊

在ベラルーシ日本大使館主催の、第七回ベラルーシにおける日本の秋フェスティバル
のモギリョフギムナジウム芸術学校での、演奏ビデオ🇧🇾
「尺八とオーケストラとコーラスのための日本のメロディメドレー
(ベラルーシ民謡クパリンカ入り) わたしの作曲家の双子の姉 高畠亜生(Aoi Takabatake)
が、作編曲してくれました👩‍❤️‍💋‍👩


モギリョフの地方テレビインタビュービデオ(ロシア語?ベラルーシ語ですが、、)は
こちら💁‍♀️


アーチストの友人が、送ってきてくれた、心休まるビデオで
心身共に、ゆっくり休めますように😴🌙💤
感謝の心の連続は、必ず、あなたの道が開けてきます💕






2020年4月14日火曜日

外出禁止令延期決定

地球の愛する皆さま、こんにちわ🌏

今日は数日ぶりのブログになりました😅 尺八シンガー、クレアシオン桂です。
いつも訪問下さり、読んで下さりありがとうございます🌸

イースターも過ぎて、地球は更なる復活に向けて、新しい日を
迎えようとしています⭐️


©︎Takako Hirano 

このイラストは、アーチスト仲間のTakakoさんが、描いてくれました😊

一日の大半は、インコのマミーを肩に乗せたまま1ヵ月暮らしてる私を表現
してくれました💕

表題お分かりのように、昨夜夜の8時の、エリゼ宮からのテレビ生ライブ配信で

フランスのマクロン大統領が演説🇫🇷


コロナ対策の外出規制を5月11日まで延長を決定しました。



詳細は、こちらのリンクへ

5月11日以降の外出規制解除とともに保育園、小中高校は段階的に再開しますが、
大学や、高等専門機関の学校などは、夏までは通常の授業はなく、遠隔オンライン授業

特に試験に関しては新しい方法で対処😲 


スゴイ😲


多くの人が集まる場所、レストラン、カフェ、ホテル、映画館、劇場、コンサートホール、

美術館などは営業禁止、閉業のまま😓


せっかくここまで、我慢大会してきたのだから、もう少しテレビ電話で、友人たちとの アペリティフや夕食会で工夫しながら乗り切ろう🍺

観客が多く集まるフェスティバルやイベントは7月中旬までは開催不可能😆


ウヒャ🎤🎹
この外出規制期間に、沢山曲作りや練習に専念し、YouTube 音楽配信や、また生ライブオンライン配信や仲間と一緒に配信など、表現して、心のケアや、免疫力アップのお手伝いができたら、と思っていますので、どうぞ、チャンネル登録して頂けると、励みになります🙇‍♀️宜しくお願いします🤲

それ以外の案件は5月中旬以降、状況を見つつ判断してゆき、マスクに関しては、
全国民に支給し、交通機関利用時などの際は着用必須😷


ここんところ、フランス人たち、(わたしも含み)マスクサボり気味だったしなあ、
サラシの綿生地で、作っているところ🙆‍♀️
          日曜でも、フランス国民の主食のパン屋は開いていました🥖

大統領は、ここ数日間は病院に搬入される重症患者数が減り、感染の広がる勢いを抑える
「希望は生まれつつある」ものの、ウイルスを征するには至っておらず、国民が規則を遵守し続けることが大切だと話した😍


オオ‼️素晴らしいではないか😚この調子😋

4月15日には閣僚会議をもち、新しい経済的援助措置を決める‼️


助かりますね、やはりこう言う敏速な措置は😆


・
すでに8百万人の会社員が一時的失業(部分失業)の扱いで、企業の活動が停止し失業していても8割の給与を受給できるが、社員だけでなく、企業に対しての経済支援措置も長期化、強化する。


・職人、商店経営者、自由業などに認められている「連帯基金」を受給するための手続きを簡素化、強化することを政府に要請。


わたしは、これに当たる自由職業フリーランスアーチストにあたるため、
昨年の3月分の収入に比べて、今年3月の収入は50%以下だったために、
1500€の連帯基金を申請中ですが、まだ受け取れていませんので、外出規制延長により
受給が早まるように切に祈っています😌
わたしが受給できれば、申請対象者に漏れてしまったアーチスト仲間などにもシェアしたり、助け合ったり、食べ物を分け合ったり、できますしね🍙



・観光、ホテル、レストラン、文化、イベント分野は特別に支援策を講じる。

・子どものいる貧しい家庭には手当を支給。 

・海外県などから本土に勉強に来ている学生などへの援助。


みんな、こう言う緊急措置を取らないと、直ぐにストライキやデモなど起こるフランス
ですからね🤝

Ikebana/photo by Claire Delort 

5月11日以降の措置

高齢者、医療関係者などを優先的に検査してゆく。
症状がある人は全員検査(症状がない人は検査しない)


今のところ、全く症状はなく、、たくさん休めたからか二年苦しんだ、〇〇肩だった左肩が、完全に上がるようになり、めちゃくちゃ嬉しい😅

●トラッキング(トレーシング)


希望者、匿名性を保証した上でのブルートゥース機能を使ったトレーシング導入を検討。
スマートフォンで感染者を追跡し、感染者と接触があったかどうかを知ることのできるアプリケーション導入に関しては、国会で審議し、関連機関の見解を仰ぐ。


へぇ、凄い進歩‼️

●国境
EU以外の国との国境は閉鎖のまま。


まだまだ、日本には🇯🇵帰れないかあ😂 夏までは、、
東京に一人暮らしをしている息子も、またパリに戻ってくるから、グッドタイミング👍

●治療薬、ワクチン
ワクチン開発には数ヶ月を要するが、早急に開発が行われるよう投資する。
可能性がある治療薬に関しては全て臨床試験を行う。


ワクチンは、絶対に打たないぞー🙅‍♀️

医者が、自分や家族が癌になっても、抗がん剤や放射線治療はしないらしいですからね〜


動物たちを利用して、見せ物なんかをする人間たちに、逆襲かもしれない🤨

最後に、わたしのオリジナルソング「約束の赤い糸」弾き語りのYouTube 

部屋スマホ録画をリンク貼っておきます🎹

皆さま、聴いて下さいね🌏